イデオロギーは悪なのか〈13〉

 今一度イデオロギーに対するアルチュセールの定義に戻る。
「…イデオロギーは諸個人が彼らの存在の諸条件に対してもつ想像的な関係の表象である。…」(※1)
 想像的な関係を想像するのはあくまでも「個人」であり、想像的な関係に与えられている物質的な関係において、現実に対して現実的に関係するのもまた個人であり、現実的な関係において現実的に行為するのもやはり個人であり、その現実的な行為の主体であるのももちろん個人である。
 ゆえに、「…イデオロギーは具体的主体を対象としてしか存在しない…」(※2)と言いうるのであれば、それはつまり、「イデオロギーは具体的な個人を対象としてしか存在しない」ということである。なぜなら、「想像することができるのは具体的な個人の意識だけ」なのだから。
 イデオロギーはそのような具体的な個人に向けて、当のイデオロギーを現実化する主体となるように呼びかける。
 ところでなぜ、「呼びかける」のか?なぜ、「強制する」のではないのか?
 それは、イデオロギーを現実化するためには「主体的に動く=自ら歩む」主体によって現実化されるのでなければ意味がないからだ。言い換えると、当のイデオロギーが現実化するためには、そのイデオロギーが「現実化されなければ困る主体=個人」によって現実化されるのでなければならないのである。だからイデオロギーは、そのような具体的な個人に対して、当のイデオロギーが現実化するためには「あなたが必要なのだ、あなたでなければ困る」と持ち上げ、その気にさせるわけである。

 イデオロギー的行為の主体として「イデオロギーの現実化の担い手」になるということは、自分自身のその諸行為一つ一つにおいてイデオロギーを表現する、その機能=役割を担うということである。そのようなイデオロギー的主体=個人が「主体的に行動する」というのは、「それは自分でなければできないことだと自覚して行動する」ということなのである。「自分自身が行動しなければ、そのイデオロギーが現実化することがないのだ」という「使命感」が、彼を自分自身として自発的に、つまり「主体的」に行動させる。
 また、イデオロギーは「イデオロギー的主体である個人」に、その行動の正当な理由を与える。「なぜ彼でなければならないのか?」または「なぜ彼を必要としているのか?」という、イデオロギーと彼との「関係の理由」が、具体的なものとして、つまり「現実的なもの」として、その関係の内部において示される。イデオロギー的主体である彼は、その呼びかけが自分自身に向けられていることを認め、そこでまた自分自身が必要とされていることを認めるがゆえに、その呼びかけを受け入れる。そのイデオロギーとの「関係の内部」において、自分自身というものが正当に存在するということを認め、それを受け入れ、「その関係を担う役割」を引き受ける。ここに、イデオロギーと個人の「共犯関係」が成立する。個人はもはや一方的な被害者ではない。強制的に引きずり込まれた奴隷でもない。イデオロギーが現実化されれば、それは彼自身の栄誉であり、イデオロギーが罪に問われるなら、彼自身も被告人となり、絞首台に立つことになる。だから彼は必死に「主体的に動く=自ら歩む」だろう、その自分自身の諸行為が「よりよい結果を生む」ために。
 このように、イデオロギーと個人のその関係の内部では「…あなたも私も常に既に主体であり、主体としてイデオロギー的再認の儀式を絶え間なく実行しており、こうした儀式が、われわれはまさしく具体的で個別的な主体であり、他人といっしょくたにされない(当然のことながら)かけがえのない主体であることを保証している…」(※3)ということが、「あなたにも私にも、またそのイデオロギー的関係の内部に存在する諸個人の誰彼を問わず保証されているから」こそ、人はそのイデオロギー的関係の内部で、そのイデオロギー的主体の役割=機能を担い、それを「自分自身の役割として、主体的に行為することができる」わけである。
(つづく)

◎引用・参照
(※1)アルチュセール「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」 柳内隆訳
(※2)アルチュセール「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」 柳内隆訳
(※3)アルチュセール「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」 柳内隆訳

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