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脱学校的人間(新編集版)〈53〉

 人が自分自身で努力した成果=結果は、しかしそれ自体で評価されるものではけっしてなく、その人自身の努力した成果=結果というものは、必ず他の誰かの成果=結果に相対して評価されるものである。他の誰かの評価が上昇するのであれば、その人の評価は下降することになるし、その逆もまた然りである。
 たしかにその人が他の誰かより高い評価を得られるのであれば、彼自身の努力した成果=結果に対して「彼は努力したのだ」という評価が与えられ、「彼自身が努力した事実として認められる」ところとなるであろう。しかし「その人の努力が他の誰かより評価の低いものだった」としたら、彼自身がどんなに自分では努力したと思っているのだとしても、それを努力とは誰にも認めてもらえないわけである。そのように、努力したと誰にも認めてもらえないということは、むしろ逆に彼は努力していなかったのだと他の者たちから認定されているということにもなるわけなのであり、なおかつそのように努力しなかったものと認められている彼のその「成果=結果は結局、何もなかったものとして認定される」ことにもなっていくわけである。
 自分自身が努力したのか否かはそのように、他の者の成果=結果および他の者たちによる評価に依存しなければならないけれども、しかしその評価自体はやはり、常に自分自身に対して下されるものなのだから、結果として人はそれを自分自身への評価として、自分自身が受け止めなければならないものであると自覚していなければならない。ゆえにそのような評価が下された要因は、あくまでも自分自身に理由があることなのだとして、人はその責任を自分自身で全面的に担わなければならない。それは社会的にもそのように求められているわけだし、だから自分自身でもそのように受け入れていなければならないものでもある。そしてそのような「条件」を自分自身として受け入れることが、自分自身への評価を確かなものとする唯一の条件なのでもあるとしたら、やはり人はその条件を、否が応でも受け入れなければならないだろう。

 自分自身に対して下された評価について、それがいかに他の者たちへの評価と相対して下されたものだとしても、その評価については「全面的に自分自身の責任である」という条件を受け入れる限り、人は結局その理由を「自分自身に求めていく」ことになるだろう。「自分の一体何がいけなかったのか?」と、その理由があたかもそれ自体として自分自身の中にあるかのように、あるいは自分自身に由来するものであるかのように、彼は「自分自身の内面」を闇雲に深く深く抉っていくことになるだろう。
 しかしいくら自分自身を掘り下げていってみても、きっと「これといったもの」は何も出てきはしない。なぜなら彼の成果=結果に対する評価の理由は、すでに何度も言うように、「彼自身だけで成り立っているものではない」のだから。
 もし本当に、彼自身の努力が足りなかったから彼の成果=結果が評価されなかったのだとして、彼がその理由を「自分自身の努力が足りなかったこと」あるいは「自分自身が努力しなかったこと」に求め、それを自分自身として反省し、よりいっそう自分自身として努力したとしても、しかしだからといって彼はやはり、「それだけでは評価されることはない」だろう。もし「彼のさらなる努力よりも、他の者の努力がまたさらに上回っていた」としたら、やはり彼は相変わらず「何も努力していないものとして見なされることになる」のだから。逆に、もし彼が「何の努力もしていなかった」としても、「他の者の努力が、それをさらに下回っていた」のならば、結果的に彼は「努力したものとして評価される」ことになるだろう。
 いずれにせよ彼自身の努力に対する評価の根拠は全面的に、他の者に依存していなければならないはずなのだが、そこでもし彼がそのことを頑として受け入れず、自分自身が全く評価されなかったのはあくまでも自分自身の努力が足りなかっただけだという「自分自身の主体性に固執する」のだとしても、「しかしむしろそれはただ単に、自分で自分の努力を正当化しているのにすぎないのではないか?」というように、逆に他の者たちからは後ろ指をさされてしまうだけのことにしかならないかもしれない。「あいつは自分自身のことしか見ていない、自己愛のかたまりだ」などと陰口を叩かれることにもなるかもしれない。
 それでもなお、彼が執拗にそのような自己正当化にもとづいて、「自分自身がまた努力しさえすれば」という目論見の中で「まだ自分自身として居座り続けようとしている」ならば、もはや彼はさながら地縛霊のようではないかと、他の者たちから揶揄されたとしてもしかたがないことだろう。彼はもはや、その社会的な評価としては「すでに存在してすらいない者」だというようにまで見なされているもののはずなのに。それを受け入れられない魂が怨念となって、まだ地上にしがみついているだけのことなのに。

 そのような、巷の辻々にへばりつく「頽落者たちの怨念」を背後に感じながら、それでも人は「努力し続けなければ何もないだけでなく、失い続けることになるかもしれない」という無への恐怖に追われながら、自らの突き進んできた足跡を一瞬たりとも振り返ることなどできず、ただひたすら前へ前へと走り続けさせられることになるだろう。これほど夥しい「頽落者たちの無残な亡骸」を背にしては、どれほど図太い神経の持ち主でも、「階層上昇」などと夢見心地ではもはやいられまい。自分がいつあのような有り様に陥ることになるのかという恐怖だけが、彼をただ闇雲に走らせているのだ。
 そして彼自身もあの頽落者たちと同様に、自分で自分自身が何であるのかが、もはやわからなくなってきていることだろう。わかったと思うその間もなく、それを振り捨てるようにして彼は、さらになおも走り続けていかなければならないのだから。
 そのようにして、彼は自分自身を見失いながらも、それでもなお自分自身でいなければならない、走り続けている限りは際限もなく。これはまさに、「呪い」だと言うべきものなのではないだろうか。

 以上のようなことを考えてみるにつけ、いわゆる「メリトクラシー」というものは、「得ることに意味がある」というよりも「失わないことに意味がある」というものであるように思われてくるし、実際そのように設定されているものだとしか考えられないくらいである。ならばそれはむしろ、「デメリットクラシー」と呼ぶことの方が正しいのだろう。実際それは「失うことへの恐怖」によって突き動かされる、一種の「恐怖支配」だとさえ言えるわけなのだから。

〈つづく〉


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