見出し画像

脱学校的人間(新編集版)〈73〉

 既存のシステムに対抗する改革的な意識の持ち主といえども、教育者はあくまで教育者である。彼らの目的とするところは結局、旧弊で保守的な教育者たちと何ら違うところはない。彼らはいずれも同じような理想を信じ、同じような夢を見ているのである。
 たとえば、オルタナティブ教育やらホームスクーリングなどといったやり方で、既存の方法に対抗しようとする教育の改革者たちも、自身の編み出したシステムによって教育された人間たちが、後々無事に社会へと送り出され、その送り出された先の社会で、公的なシステムである学校から送り出されてきた者たちと同様に、世の中の役に立っている姿を見るにつけ、「ああ、やはり自分たちのやり方は、けっして間違っていなかったのだ」と、無邪気に喜ぶことだろう。たとえ公的な方法によるのではなくても有用な労働力を生産することはできるのだということを、彼らは当の教育者として胸を張り、自慢に思うことだろう。「たとえ作り方は違っても出来上がったモノは同じ、いやそれ以上だ」というわけである。そして、そこで彼らの仕事はひとまず一丁あがりだ。彼らはすぐさま「次の」生産作業に取りかかることだろうし、その「材料」の供給に事欠くことも、おそらくは半恒久的にないことだろう。
 
 公的なシステムである学校であれ、あるいはオルタナティブな教育プロセスであれ、それが教育システム=機関=装置の立て付けで構築されているものである以上は、いずれも同じような機能を有しており、かつ「同じような意図において機能し稼働している」のだというのは、もはや明白なことである。そしてその明白な事実がまた、当の教育システム=機関=装置が「システム=機関=装置であること自体」を条件づけているものなのでもある。
 たとえそこでいくらその「プロセスの違い」を強調したところで、それが「教育を意図したものである限り」は、そのプロセスを経た結果は同じものとなるように提出されるのでなければならないのだ。もしそうでなければ、その「プロセスとしての有効性」はけっして証明しえないことになるのだから。
 改革的教育者たちがいくら「オルタナティブな教育システム」を標榜していようとも、結局のところそれが「学校と全く同じ構造において、教育システム=機関=装置として機能する」のだというのは、すでに言ってきた通り明らかなことである。してみればその結果、たとえどのような教育システム=機関=装置を構築したところで、いずれにせよそれは「学校と似たような様態のシステム=機関=装置」になる他はないというのもまた確かなことでもあるのだ。それゆえにたとえそこでいくら「学校中心の教育に対して別の教育の途がある」(※1)などとその「独自性」を主張したところで、そういった「教育の途」という認識を前提にして設計されているのである限りは、結局のところそれもやはり「教育そのもの」へと至るのは必定なのである。
 そして、結局そこで提供されるものが「教育そのものである限り」は、すでに「公的な教育システム=機関=装置」として学校が、この社会において支配的なシステム=機関=装置として機能している以上、せいぜい「公教育保持のための補充策の認識として使われ」(※2)続けるだけのことになる。要するに、公的な教育システム=機関=装置の「バックアップ」としてしか考えられえない、ということになるわけだ。だから改革的教育者たちが、たとえどれほど新奇な教育「方法」を企画しようとも、「教育そのもの」がその発想の根拠にある限りは、またいかに新味のある意図を持った教育機関=装置であろうとも、それが「教育を意図した機関=装置」である限りは、「教育機関=装置としての立て付けそれ自体」であることに縛られた発想から抜け出して、そこからさらに幅を広げていくことができるような「独自の発想」などといったものが出てくることは金輪際けっしてないだろう。
 かくして教育が、社会的な有用性をもって認められる何らかのシステムを必要とするものであると考えられている限りは、たとえそれが「学校以外のどのような機関=装置」であれ、結局のところどれも「学校と似たようなもの」にならざるをえないのである。

〈つづく〉

◎引用・参照
※1 山本哲士「学校の幻想 教育の幻想」
※2 山本哲士「学校の幻想 教育の幻想」


◎『note創作大賞2022』に参加しています。
応募対象記事 「〈イントロダクション〉」 への応援、よろしくお願いします。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?