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変わりたいという気持ちは”特別な力”


変わりたいと思い戦い続けることができて、変わり続けようと行動することができるっていうのは、並大抵のことではないらしい。

今を苦しみ、今を悩み、今を見つめようとすることは人間にとっては簡単なことではない。

そもそも人は、簡単に「変われない」のである。

社会学や哲学を持ち出せば、そもそも自分という存在自体が両親や周囲の人、友人や恋人、文化や環境に影響を受けて構築されていく。自分が自分で積み上げていくというものはほぼほぼないとも言える。

そして、どんな人でも限られた世界のなかで生きているわけであり、そこがどんなに問題であろうと機能していなかったとしても、変わろうとするためには相当な力を要することになる。

だから、多くの人は変わる選択をせずに、既存の中で生きていこうとする。それが上手くいっているのであればいいが、そうでは無い場合「受け入れる」という形で納得せざるを得ない。

それが正しいか正しくないのかは分からない。

自分自身のいる世界が本当に自分自身がいる世界なのか。その世界から抜け出して、理想とする世界に、あるいは、少しでも行きやすい世界に行こうとするのはその人次第になる。


「変わることは難しい、簡単なことじゃない。だから特別な力なのかもしれない」


そんなことを教えてくれたのは、今日話にいたところのカウンセラーだった。

身内に依存症傾向がある者がいる。多分それは、脳機能と発達的課題が合わさった形になりつつあるのかもしれない。しかし、いざ身内に、依存症傾向の強い人がいると対処が難しく、冷静な判断ができない。

自分がこれまで関わってきた第三者であれば、冷静に対処できたのに身内にいると、癇癪を起こしそうになるほど苦しくなる。

多くの依存症は、本人が依存症によって苦しんで問題だと気が付かないと治療に持っていくことは難しいという。もちろん強制的なものも多くあるが、高齢者になればなるほど無自覚になり、介入することは困難になる。

例えば、仕事で定年迎えた人達は、依存症になる傾向が高いという。仕事という柱を失い、多くの時間の1人で過ごす。今までやってきたことが趣味も楽しくなくなり、社会生活も楽しくなくなる。その空虚さを埋めるために、手っ取り早く手が出せるアルコールなどで紛らわして、いつのまに…なんていうことあるらしい。

依存症や発達的な課題を持った家族や身内などがいる場合、簡単には逃げられらない。

特に、重大で深刻な問題(暴力、借金、傷害、社会生活の深刻な不可能さなど)が表面化していない依存症や発達的な課題の場合は、相談するところや介入する機関も限られてしまう。あるいは、表面上の部分でしかアプローチができないこともある。

そうなってくると、「本人が変わりたいと思う気持ち」「自分と相手の人生は違うから、振り回されないための方法を考える」「自分と相手との距離を離していく」などの手段しか残っていなくなる。

依存症などは、社会構造や生育環境、所属している階層などによっても大きく変化していく。本人ではどうしようもないものも、本人の問題であるものもある。どちらにせよ、手助けや支援を適切に行い、生きやすく道を作っていくことが大切になってくる。

例えば、ライフシフト助け、人間関係への介入、時間の使い方の方法、趣味と生活のバランスを整える、自分をコントロールする手段を覚える。なんていうところだろうか。

しかし、重大な側面が出てきていない場合は、自分自身がいかにその問題に直面するかにかかってきてしまう。危機的な状況を迎えるまでは、周囲の人間は、見守るのか突き放すのかなど困難な選択を迫られてしまう。


重大な問題が出てきてないが、周囲は困っているなどの時には本当にの気づきが必要になってくることは再三述べてきたが、それは本当に難しいことなのである。

変わりたいと思う気持ちは、平和で安全な環境では思いもしないだろう。残酷で絶望的で自分が変わりたいと願わなければ、さらなる地獄が待っていると認識しなければ変わりたいとは思えない気持ちはよく分かる。

どちらかというと自分は、常に危機的だからこそ「変わらないきゃ」ということが日常的に備わっていた。だから、それが上手くできない人を見ると疑問が出てしまう。

しかし、変わりたいと思う気持ちは簡単なものではなくて特別な力なのである。

自分の足で進むこと、自分の意思で歩いていくこと、自分の感覚で立ち向かうこと。それは誰もができることではない。多くは誰かの助けがあるわけだから。

身内は、多分変わりたいとは死ぬまで思わないだろうという結論が出た。だから、見守ったり、遠回しな抗議を続けるという選択をするらしい。それが正しいのかと言われると難しい。しかし、具体的かつ深刻でないものにはアプローチができないという1つの結果ならば受け入れるしかない。

この経験を通じて、変わりたいと思い、行動に繋げることができるのは強さだと知った。もちろん、成功しなければ意味がないとも思うが、成功しなくても思えるというのは強さなのだと。


しかし、その変わろうというのは、本当に自分の望みに添った形なのだろうか。結局、誰かの作ったルールや世界に合わせるということなのだろうか。

僕は変わりたいと願いながらも、この絶望的な自分の世界を変えることをできていない。

それならば、変わらないということと同じような気持ちも捨てきれない。

他者のことよりも自分のことに目を向けるべきなのだが、目を逸らし始めているということは、僕も同じ立場なのかもしれない。

夢はルポライターなどです。(/・ω・)/「声なき声を」届けることや草の根活動を頑張っている人や世に出せるように、そのために使えたらなと思います。