アウグストゥス_マルス_ウルトル神殿_のコピー

アンティークコインの世界 〜発行背景が興味深いローマコイン〜

今回は発行背景が興味深い2つのローマコインを紹介していく。コインに刻まれた図像から発行者たちの意図を読み取ることで、より深く歴史を理解することができる。紹介するこれらのコインは特に古代ローマ史上、重要なものであり、資料としての価値は一級品と言っていいだろう。こうした資料が残っているからこそ、私たちはずっと昔の人間のことを知ることができる。コインは金属という頑丈で残りやすい素材をだったため、数千年の時を超えて現存する。これは先祖たちから私たちへの最高の贈り物だと言える。


【基礎情報】

図柄表:アウグストゥス
図柄裏:マルス・ウルトル神殿 
発行地:ローマ帝国、ヒスパニア属州、コロニア・パトリキア 
発行年:前19〜前18年
銘文表:CAESARI AVGVSTO(カエサリ・アウグスト)
銘文裏:S P Q R(元老院とローマ市民)
額面:デナリウス 
材質:銀
直径:17mm 
重量:3.72g 
状態:VF toned(表面の肖像の首元にバンカーズマークあり。裏面がやや左に打刻ズレ、S Pの文字が見切れている)
分類:RSC282, RIC120

【発行背景】

初代ローマ皇帝アウグストゥスの治世にヒスパニア属州コロニア・パトリキアで発行されたデナリウス銀貨。当初のアウグストゥスの肖像は無冠で表現されていたが、この時代になると市民冠をつけた姿で表現されるようになる。

また、本貨の興味深い点は裏面にマルス・ウルトル神殿が描かれていることだ。マルス・ウルトルは復讐の男神で、ローマで古くから篤く信仰されていた武神マルスの派生系に相当する。カエサルがブルートゥスに暗殺された時、アウグストゥスはこのマルス・ウルトルに祈りを捧げ、復讐を誓ったという。本貨に描かれたこの神殿は、その際にアウグストゥスが訪れたマルス・ウルトル神殿であり、彼にとっては思い出深い場所である。コインにこの神殿を刻むことで、アウグストゥスは過去の出来事を自身の心に再度刻もうとしたのかもしれない。

敬愛する養父カエサルの死は、アウグストゥスにとって予想外の出来事だった。だが、アウグストゥスはそんな危機を乗り越え、皇帝にまで上り詰める。彼をそこまで動かした原動力が復讐の思いにあったことを考えると、本貨はアウグストゥスの人生を映し出した貴重な資料と言える。

また、裏面にはセナトゥス・ポンプルスクェ・ローマヌス(元老院とローマ市民)というローマを代表するスローガンが刻印されている。この文言は現在のローマのマンホールなど、至る箇所に記されており、ローマを象徴するものとして現代人にも好まれている。ドーム状の屋根を持つマルス・ウルトル神殿の中には戦車が奉納されており、その上には鷲を象ったローマの軍旗が捧げられている。これはアウグストゥスがブルートゥスらが率いた共和・元老院派の軍勢から戦利品として奪ったものかもしれない。

【用語解説】

アウグストゥス
旧姓オクタウィウス。カエサルの養子後は、オクタウィアヌスまたはカエサルと名乗る。皇帝に即位後、アウグストゥス(尊厳なる者)と自ら名乗る。英雄カエサルを凌ぐ天才的な統治者で、ローマ帝国の基盤をつくった。
カエサル
ガリア戦争の勝利で巨万の富を手にし、終戦後、自国ローマを制圧して終身独裁官にまで上り詰めた。しかし、共和政主義者であるブルートゥスやカッシウスに王位を狙う危険な人物として疎まれ、暗殺される。アウグストゥスの才能に気づき、死の直前に養子として指名していた。
ブルートゥス
カエサルのお気に入りで、戦友でもあったが、政治方針の違いで宿敵となる。ブルートゥスの母セルウィリアはカエサルの愛人であり、彼は極めて微妙な立場にあった。カエサルを暗殺した後、ブルートゥスは市民からの歓迎を受けると読んでいたが、予想は外れてローマにいられなくなり、マケドニアに逃走した。同地で挙兵し、オクタウィアヌスとアントニウスが率いるカエサル派の軍勢と衝突するも、敗北し自害した。
マルス
古代ローマの戦争の神。軍事国家だったローマではその性質上、大変好まれ、篤く信奉された。原型は古代ギリシアのアレスに由来するが、アレスは粗野で暴力的な性格から当のギリシア人からは疎まれていた。ローマの創始者ロムルスは、アルバ・ロンガ王国の王女でウェスタの巫女だったレア・シルウィアとマルスの子と伝承される。そのため、マルスに対するローマ人の信仰は他の神々に比べて特別なものだった。


【基礎情報】

図柄表:ユバ2世 
図柄裏:シストルム、イシスの冠 
発行地:マウレタニア王国、カエサレア
出土地:モロッコ、バナサ遺跡
発行年:11〜23年
銘文表:REX IVBA(ユバ王)
銘文裏:ΒΑCΙΛΙCCΑ KΛEOΠATΡA(クレオパトラ王妃)
額面:デナリウス 
材質:銀
直径:18mm 
重量:3.2g 
状態:F+ toned(裏面がやや左に打刻ズレ、ギリシア文字による単語の先頭が見切れている)
分類:GICV6003, MAA99, SNG Cop571, CNNM312, Müller80

【発行背景】

ユバ2世の治世にマウレタニア王国のカエサリアで発行されたデナリウス銀貨。この頃のマウレタニアはローマの属国であり、自治権は認められていたもののローマ化が進められ、帝国の言いなりだった。王族だったユバ2世は、マウレタニアが戦争に敗れた後に人質としてローマに送られ育てられた。ユバ2世は非常に優秀で、教養のある人物だったと伝えられている。また、親ローマ派で皇帝アウグストゥスに忠誠を誓う王だった。

本貨の興味深い点は、表面にはラテン文字が使用され、裏面にはギリシア文字が使用されていることだ。表と裏で使用されている言語が異なるコインは珍しい。表面にはレックス・ユバ(ユバ王)とラテン文字で記されており、裏面にはバシリッサ・クレオパトラ(クレオパトラ王妃)と記されている。このクレオパトラとはユバ2世の妻であり、有名なクレオパトラ7世の娘にあたる。歴史学では混同を避けるため、ユバ2世の妻のクレオパトラをクレオパトラ・セレネと呼ぶ。彼女はクレオパトラ7世の子で、男女の双子として生まれた。そのため、この双子はヘリオスとセレネと名付けられた。ヘリオスはギリシアの太陽神の名で、セレネは月の女神の名である。すなわち、この双子の名は「太陽と月」を意味している。クレオパトラ・セレネは、母クレオパトラ7世と父マルクス・アントニウスがアクティウムの海戦で、アウグストゥス(オクタウィアヌス)に敗れた後、ローマの人質とされた。その後、アウグストゥスによって、マウレタニアのユバ2世と政略婚をさせられる。

裏面にはクレオパトラ・セレネを意味するギリシア文字の他、エジプトの儀具シストルム、エジプトの女神イシスの冠が描かれている。シストルムは、はめ込まれた複数の金属製の車輪が回転することで音を発する儀式用の楽器で、女性神官がこの楽器を主に演奏した。古代エジプトには「シストルム演奏者」という称号がコフィンテキスト(棺に記された供養碑文)で頻繁に見られる。シストルムは、それほど宗教的に根付いていたエジプトを代表する楽器である。イシスの冠はエジプトの女神イシスを象徴するもので、太陽を模した円盤に2枚のダチョウの羽が装飾された興味深いデザインを持つ。太陽は生命の源であり、復活の象徴だった。また、ダチョウは多産と繁栄の象徴とされていた。エジプトにとって縁起の良いモティーフを組み合わせてつくられた冠だったわけである。

本貨は1907年にモロッコのバナサ遺跡での発掘調査中に発見されたと記録されている。当時のモロッコはフランスの保護国であり、それゆえ、発見された本貨はフランス本土のもとへと渡った。その後は古代の遺物に強い関心を寄せるイギリスのもとへ渡り、紆余曲折を経て現在は日本に在住する私のもとにある。発見されてから約100年、だいぶ長い間各地を旅して来たようだ。ヨーロッパから東の最果てにある日本まで旅したのだから、もう立派な冒険家と言っていいだろう。だが、それが人の手から人の手に渡る貨幣本来の役割であり、宿命でもある。本貨が次にどこに向かうのか、それは神のみぞ知る未来だが、しばらくは私と共にいることになるだろう。

【用語解説】

クレオパトラ7世
プトレマイオス朝最後の女性ファラオ。エジプトを代表する最も有名な女王である。ローマ人であるカエサルやアントニウスと恋に落ち、エジプトの再興を図った。アントニウスとはシリアで挙式を挙げ、複数の子をもうける。だが、敗戦後、男児は処刑された。女児は王族に嫁いだものの、その後の消息は不明。クレオパトラの血縁がどこまで続いたのかは判然としない。彼女は夫アントニウスが自害した後、自身も後追い自殺をする。毒蛇に胸ないし腕を噛ませて自害したと伝承されるが、その根拠は定かではなく、トリカブト等の毒薬の服用で自死を図った可能性も指摘されている。
マルクス・アントニウス
カエサルの死後にローマを牛耳った政治家。カエサル存命中は軍人として活躍し、数々の戦いで功績を残した。アントニウスは政略婚でカエサルの養子オクタウィアヌスの姉であるオクタウィアと結ばれるものの、アテナイで数年過ごした後、一方的に離縁してクレオパトラと結婚するという強行に出た。これはローマ市民の反感を大きく買った。また、彼はローマの属州を勝手にエジプトに譲渡するなど、公私混同した職権濫用で祖国ローマを敵に回した。軍人として優れていたため、アクティウム沖の海戦で宿敵オクタウィアヌスとのケリをつけようとしたが、若き天才将軍アグリッパの策略に敗れ、多くの部下を失う。部下を見捨てて敗走するも、その翌年には自死を選択した。
オクタウィア
騎士階級のガイウス・オクタウィウスとカエサルの姪アティア・バルバ・カエソニアの娘。オクタウィアヌスの姉にあたる。貞節な美女だったことで知られ、ローマ人女性の鑑として後世の人間からも尊敬されていた。だが、夫アントニウスからは一方的に離縁されるなど、不遇な人生を歩む。アントニウスが敗戦して自害すると、彼とクレオパトラの間にできた子どもたちを引き取り、自宅で養育した。オクタウィアにとってクレオパトラは夫を寝取った憎むべき女であり、夫も自身を裏切った身勝手な人物だったが、それでも彼らの子どもたちには愛情を注いでいたところに、オクタウィアの人格者としての人間性が垣間見られる。ちなみに、彼女はローマ人女性で初めてコインに肖像が刻まれた人物でもある。
イシス
エジプトを代表する女神。ローマ時代のギリシア人の歴史家プルタルコスが編纂した『オシリス神話』では、夫と子を守る強き女性として描かれている。エジプトの王だった夫オシリスが暗殺されると、その遺骸を回収し、ミイラづくりの神アヌビスと協力して復活させた。その後は、死者の地下世界をオシリスとアヌビスが守護し、地上世界をイシスと彼女の息子ホルスが守護することになったという。イシスはエジプトのみならず、広範にわたって信仰された女神で、ローマ帝国領及びローマ人からも信仰されていた。


2つのコインを紹介した。両者共にローマが帝国として成立しはじめた初期の頃のコインである。とはいえ、ぱっと見は磨耗した肖像が刻まれた小汚いものにしか見えない。だが、発行背景がわかれば、それは急に興味深いものとなり、歴史的価値のあるものだと気づくことができる。私も最初はこの資料価値が理解できない側の人間だった。しかし、背景を知った瞬間にくすんだ銀貨が急に輝いて見えた。コインに限らず、世界にはそうしたものがまだまだたくさんあるのかもしれない。そうした発見をすることで、人生がより豊かなものになればというのが私の願いである。

*掲載コインは筆者私物を撮影・掲載。

To be continued…

Shelk

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