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半宝庵(武者小路千家)
「半宝庵(はんぽうあん)」
京都の武者小路千家敷地内に現存する茶室。
七代・直斎堅叟(じきさいけんそう)が安永元(1772)年に焼失した官休庵を再建する際につくった「一方庵(いっぽうあん)」という茶室が始まりで、何度かの焼失を経て半宝庵と名を変えてきたのがこの茶室だそうです。
全体四畳半(正方形)に桝床を組み入れ、床脇の一畳を点前座にしています。
炉は台目切りで真っ直ぐな中柱と袖壁を立て、
半床庵(官休庵東京稽古場)
「半床庵(はんしょうあん)」
武者小路千家の茶室。
東京都文京区千駄木の官休庵東京出張所に建つ茶室で、もとは名古屋の某家にあったものを大正10(1921)年に現在地(旧久米邸)に移築、昭和34(1959)年に半床庵を含む一画を武者小路千家が譲り受け、現在の官休庵東京稽古場(出張所)としたそうです。
京都の久田家にも同名の茶室がありますが、別のものです。
久田家三代の宗全好みと伝えられていま
官休庵(武者小路千家の茶室)
「官休庵(かんきゅうあん)」
武者小路千家を代表する茶室。
利休の孫・宗旦の次男で、武者小路千家初代の一翁宗守(いちおうそうしゅ)の好みと伝えられます。
宗旦は生涯在野を貫きましたが、一翁は高松藩へ茶頭として仕えました。
1667(寛文7)年に75歳で官を辞し、そのときの境地にもとづく名として「官休」とついたのがこの茶室です。
一畳台目の下座床で水屋洞庫をそなえ、客座と点前畳の間に半板(
又隠(京都裏千家の四畳半)
「又隠(ゆういん)」
「又隠れる」と書いて「又隠」
つくったのは利休の孫の宗旦で、二度目の隠居の際に復原したもの。範としたのは利休の完成させた四畳半
その四畳半は、利休の師で、唐物持ちの茶の湯としての四畳半の完成者・武野紹鴎とは異なる、侘び数寄のための茶室。最初の披露は有名な北野大茶会でした。
そこで試みたものに整備を加えた、利休の侘数寄の四畳半の集大成であり、完成形といわれています。
今日庵(京都裏千家の茶室)
「今日庵(こんにちあん)」
京都の裏千家に現存。
又隠(ゆういん)とともに裏千家の中心をなす重要な茶室で、つくったのは利休の孫の宗旦とされています。
宗旦は利休の侘びをさらに深め、利休の茶を忠実に継承した一人です。その境地を表現した一畳半は「究極の茶室」ともよばれています。(※実際には一畳台目ですが、史料上は呼び名が統一されていないためここでは「一畳半」とします)
その一畳半は家督を継いだ
反古張り席(表千家 祖堂)
「反古張席(ほごばりせき)」
表千家最古の遺構、祖堂内にある一畳台目向板入り席。炉は向切(むこうぎり)。
天井は総屋根裏で床も設けません。壁面を床に見たてて壁床とし、腰張も太鼓襖(茶道口)も反古張りという、侘びに徹した構成です。
入口は西側(左手側)の貴人口。北側の壁面には下地窓が二つ、色紙窓風にあいています。
ユニークで侘びた構成の小座敷、現存します。
(三千家の茶室をまとめていま
表千家の茶室(残月亭)
「残月亭(ざんげつてい)」
利休聚楽屋敷にあったという「色付九間書院」が、現在では「残月亭」として伝わっています。
元々、屋敷にあったものを息子の少庵が写し、火事(1788年)や何度かの建て替えを経て、現在は京都の表千家にあります。
利休の色付書院は、二畳の上段に付書院のある四畳の中段があり、その天井に突上窓が切られていました。
この書院を訪れた秀吉公が、上段角の柱にもたれ、突上窓から