不審庵(京都表千家の茶室)


「不審庵(ふしんなん)」

表千家を代表する茶室。

「不審庵」の名は利休の時代から使われ、利休大徳寺前屋敷の四畳半に額が掲げられており、その他にも「不審庵」と称する利休の四畳半はいくつかありました。

利休の子の少庵は千家を再興し、「深三畳台目(※利休大坂屋敷の茶室を再現したもの)」に不審庵の名を付けていたとされています(諸説あり)。

利休の孫の宗旦は、父である少庵の死後、利休所持の障子や躙口の戸などの古材を用いて「床なしノ一畳半」を作り「不審庵」と称していました。

この不審庵は息子の江岑(こうしん)に受け継がれるも正保3(1646)年にこれを畳み、新しく平三畳台目の茶室をつくりました。これが現存する平三畳台目「不審庵」の始まりです。

深三畳台目は床柱が角柱に黒塗りの床框という堅い表現で、吹き抜けのない中柱の構え(※台目構えの祖形とされている)でしたが、より侘びた表現にふさわしいものとして平三畳台目が採用されたようです。

また、当初のものは同じく表千家の茶室「残月亭」の南側に接して建てられており、間の狭いところに水屋が設けられたため、茶道口は点前座の風炉先側にあけざるを得ず、このような変則的で特殊な構えとなったとされています。

江岑の建てた不審庵は天明8(1788)年の大火までは存続したものとされ、その後、大火での焼失と再興を経て、残月亭の南側からも離れ独立したものとなりました。

現在の不審庵は、前のものが明治39(1907)年に焼失し、大正2(1913)年に再建されたもので、そのたたずまいから細部の仕様まで忠実に旧基が踏襲されています。

内部は横に長い三畳台目(※点前座を基準に横に長いものを「平」、縦に長いものを「深」と頭につけます)で、躙口は右隅にあけられ、躙口の正面に床の間、その隣には給仕口があけられています。赤松皮付丸太の床柱に、あて丸太の相手柱、節入りの北山丸太の床框と、主張しすぎない千家流の端正な床構えとなっております。

点前座も端正な千家流の台目構えといえます。三種の異なる天井が重なる交点に、赤松皮付の真っすぐな中柱が立ち、袖壁には横竹を入れて下方を吹き抜けています。さらに、客座側から釣棚の下棚を見せる同じ大きさの棚を重ねた利休流の二重棚(※対して上の棚が下の棚よりも大きいものを「雲雀棚(ひばりだな)」(主に織部好み)といいます)。文字どおり千家流の台目構えが忠実に再現されています。

茶道口は上記の事情から点前座の風炉先側に設けられており、それに合わせて勝手付には板畳を入れ点前座にゆとりを作っているのも特長的です。利休の深三畳台目と同様に回り込んで座る形式となっております。宗旦の助言で採用されたという、太鼓襖を釣って水屋側に開く「釣襖」もこの席ならではの特徴です。

点前座の二方の壁にはくの字に腰板を張り、後方の上部にはやや高い位置に下地窓をあけており、点前座周りに多くの窓を用いた織部好み(※燕庵八窓庵など)とは対照的な光を抑制した侘びた空間となっております。客座側の天井には突上窓もあります。

客座と点前座の境の小壁(中柱の上端斜め上方)には、古渓宗陳(こけいそうちん)筆(※利休の禅の師)の「不審菴」の扁額が掲げられています。

この扁額が示すとおり不審庵は利休流の代表的な茶室として、各地に多くの写しが作られております(※天祐庵など)。

侘びの気分を色濃く表現された平三畳台目の間取りの茶室、京都表千家の敷地内に今も現存しております。

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