「ありふれたせかいせいふく」の「ガスコンロ」の意味
ピノキオピーの2012年の曲「ありふれたせかいせいふく」をわたしが知ったのは2013年頃。
当時はいじめについて歌っていると思っていた。
けれど最近、この曲はそれに留まらず、もっと広範に、今の社会のディストピア性を鳥瞰して歌っていたのではないかと思い至った。
それにあたって後半の歌詞、特にガスコンロという長年意味不明だった歌詞の真意がわかったのでここに書き記しておく。
ガスコンロの意味
「ガスコンロ」という語はこの曲の歌詞としては最後の最後に登場する。
他の部分の解釈はできたけどここだけはわからないという人は多いと思う。
斯く言う私も釈然としないまま誤魔化していた。
さて。
この曲はどんどんと歌う対象の規模がデカく普遍的になっていくという特徴があるから、その大詰めにくる歌詞の語ほどより規模が大きかったり深刻だったりしてくるわけで、そんな位置にある一見剽軽でさえあるガスコンロという家具はどんな意味があるのか。
参考までにそれまでの同じ節回し部分の1番や2番の歌詞を見てみると「14歳も40歳も」だとか「佐藤さんも鈴木さんも」だとかいう風に、同系統のものを並べている様子も見て取れる。
では「ガスコンロ」と並べて歌われているのは何かというなんと「陰謀論」と歌詞にはある。
2012年当時は今よりも「陰謀論」という言葉が知られていなかった時期だ。
まだスマホが一般層に普及しはじめてまもない頃だ。
しかし「ガスコンロ」と「陰謀論」に何の関係があるのか?
陰謀論について少し検索すると「ガスライティング」という言葉を知ることができる。
それが答えだ。
ガスライティング
詳しくはWikipediaの記事に譲るが、噛み砕いて言えば「相手に、自身の正常な感覚を疑わせる心理的加虐行為」のこと。
語源となった「ガス燈」という演劇および映画は、夫によって妻が「自分はおかしくなっている」と思いこまされる筋書きだという。
夫は様々な細工をしておいてから、いざ妻がそれを指摘すると、勘違いだとか気のせいだと言って、逆に妻の認識がおかしいと精神的に追い詰める。
この映画から、そのような嫌がらせ行為などをガスライティングというのだ。
このガスライティングと陰謀論と関係があるのかというと、かなりある。
陰謀論の一つとして「力のある組織が都合の悪い個人を社会的に孤立させたり自殺に導く為に、決して立証立件できない程に些細だがしかし執拗な嫌がらせを行なっている」というようなものが存在する。
「ガスライティング」と直接の歌詞にしないのはその方が考察の余地が生まれるからなどというものもあるだろうが、どちらかといえばそれは主たる意図ではないのではないかと思う。
主たる意図は「それを行う者」も「踊ろう」と巻き込みたかった、というところではないか。
ガスライティングを行うものもせいふくするものであると同時にせいふくされるものである、同じなんだということを強調するための差配。
そしてガスライティングを行うものだからガスコンロ。
ガスライティングを行うものに決まった呼称はないが、ガスライティングを行うのだからガスで火を灯す現代の身近な誰でもわかる装置としてガスコンロを選んだのだろう。
仮に「ガス燈」では現代人にはピンとこないし、いわんや日本人をや。
そもそもピノキオピーひいてはボカロPというものは身も蓋もない歌詞は避けるし特に10年代前半のボカロ界隈ではそういう「考察」を要する歌詞が尊ばれた背景がある。
さて。
陰謀論もガスライティングを行うものも「踊ろうrat-a-tat-tat」と誘った真意、そしてそのあとにそれでも尚「誰か 誰か みんなを助けて」と綴ったピノキオピーの絶望は如何程か。
他に血塗れになったパスポートについてなど、この記事では歌詞の全文を紐解いていく。
"せいふく"をするものも所詮はより上位の者に"せいふく"されているというやるせの無い構造。
世界のありのままの残酷さは、11年の時を経ても決して変わらず寧ろ悪化さえしている。
その色褪せない普遍的風刺の名歌詞をもう一度一から見ていこう。
以下、歌詞引用
一番はいじめだろう
狭い教室のカタツムリ
いかにもどんくささを感じさせる。
どんくさいやつは舐められる。
舐められたら虐められるのだ。
舌打ちが奏でるメロディ
メロディなので、一回やそこらではないし、沢山がそうしている様を思わせる。
嫌なポリフォニーである。
いじめっこ いじめられっこ どちらもピーマンは苦いね
当たり前だろう!
同じ人間なんだから……
はっ
つまり、「同じ人間と思っていない」ってコトォ!?
「同じ人間だと思われていない」んだろうね。
それはお互いにかもしれない。
そしてそれが
大発見
になるくらいに、両者は両者の認識で「別」なのである。
カッコいいこもかわいいこもきみのもの
つまり、人気、人望、人付き合いの為に嘘をつく。
嘘でも本音でイエス
という念の押しようには、それを突き通すという壮絶さを感じさせる。
痛いのは嫌だから逆らえない
仕方ないんだ。不本意でも、そうせざるを得ないんだ。とでもいうような。
「ありがとう」も「おはよう」も「ごめんなさい」も全部、懐かしく言葉になる
ということは、「最近聞いてないな」ということであり、つまり、「言わないし、言えないし、言われない」ような世界。
いじめの世界。
そしてそのようないじめが「黙認」されるような冷徹な社会では段々と、そう言った「あたたかみのある言葉」は廃れ、失われていくだろうという予感まで含んでいそうだ。
14歳も40歳も
そう、なにもいじめは子供が学校でされるだけの問題ではないんだ。
大人でも、会社でも行われているし、とてもありふれていて、多くの人が困っている。
そしてどうにもできずにいるし、解決したい人も素知らぬフリの人も、どうすることもできない。
それはその後の歌詞も言っている。
誰か 誰か
なのは「わたしは助けることができない」ことと「解決できる人を知らない」ことを暗に物語っている。
犯罪者であれば警察、病人であれば医者を頼れるかもしれないが、ではいじめはどうか?
教師?
上司?
ばかな。
教師や上司がグルだったり見て見ぬ振りだったりなんてよくあることだ。
事勿れ主義の日本で、問題のあるクラスやチームを受け持つ教師や上司だなんてレッテルは、いい大人は貼られたくないんだ!
じゃあ社会?
まさか。
その社会がネットリンチなんて日常的に行なっているのに?
頼るアテなんて、頼れるアテなんてどこにもないんだ。
だから「誰か」「誰か」なんだ。
そしてありふれていてそこここで起きているから
みんなを助けて
なんだ。
誰も解決できないし誰も助かってないんだよ。
いじめというのがモロ「あふれたせかいせいふく」である。
これは最もわかりやすい「ありふれたせかいせいふく」の形であり導入。
だからだろう、ここらへんは当時からわかっていたし、この解釈でこの曲の意図を完結させる人も多いことだろう。
いかんせんわかりやすいから…しかしこれはまだ序ノ口であり、氷山の一角に過ぎない。
「ありふれたせかいせいふく」は「いじめの歌」ではない。
2番 「恋人」さえもが「ありふれたせいふくしゃ」である
イライラポイ捨てグランプリ
働く場や家庭内でよく見られる「イライラを表出させたものがち」現象。
そのような人間は八つ当たりをされる側の事情などお構いなしでありまるでゴミ箱扱いである。
だから「ポイ捨て」。
1番のAメロ同様とても意味が凝縮されている良い歌詞だと思う。
幼子の可愛いアイロニー
昔は意味不明だったが今はわかる。
英語にも哲学にも疎いので、「アイロニー」という言葉が「風刺」や「皮肉」、「反語」のほかに、「ソクラテスに関わる概念」であることなど検索するまで知らなかった。
がソクラテスは今回はお呼びじゃないようだ。
少し考えてみて気づいた時に「あっ」となったのだけれど「これ自体がアイロニー」の可能性があるのだ。
この場合のアイロニーの意味するところはつまり、遅刻した人に対して「やけに早いね?」と言うようなものである。
反対の意味をあてがってみよう。
「年老いた」「憎たらしい」「直球」
そしてこの一行前の歌詞はなんだったか。
「イライラポイ捨てグランプリ」である。
それをしてくる奴は、それに甘んじるしかない境遇。
それは常に歳上とか、立場が上とか、逆らえない状況だからではないか?
親や兄や姉、上司や先輩、年長者、色々と場合が想像できる。
して、「イライラポイ捨て」をされても「耐えるしかないような」状況として真っ先にわたしが思い浮かべたのは会社の上司のおっさんと部下の若造という関係。
バイト先の「おつぼね様」と「新人」でもいい。
「幼子の可愛いアイロニー」という一行そのものがアイロニーであるならば、なるほど、「年寄りの憎たらしい直球」である。
これはキツイ。
アイロニーは嫌味ったらしくもあるが、一種のユーモアでもあろう。
イライラポイ捨てするさん達がそんなユーモアすら持ち合わせていない様すら感じさせるではないか。
或いはアイロニーの部分だけアイロニーじゃないのかもしれない。
「年寄りの憎たらしいアイロニー」
ここまでくるとこのAメロに限っては、それが歌っているのが「上司と部下」だとか「兄姉に対する弟や妹」のようなそこここに「ありふれた」一種の支配構造、関係。
そして会社や組織という「閉じた世界の征服」を表していると感じられてくる。
そういう高圧的な人の支配は確かにありふれている。
餌食にされるのは逃げられない打ち勝てない立場や体が弱かったり年齢の若い人たちだ。
わたしも数えきれない経験がある。
父の恐怖政治的な支配、姉のモラハラ的支配、兄の性暴力による支配、母の庇護者と言う立場による支配。
家庭という閉じた世界の中で彼ら個人との関係はいつだってわたしに殴る蹴る罵る否定する暴力によって彩られ支配されていた。
わたしは逃げることも逆らうこともできなかったし、それが物心ついたころから当たり前にあったので自分の環境がおかしいの気づくのに時間がかかった。
そして職場。今まで何度煮湯を飲まされてきたことか。
人の話を聞かずにその頭の中の決めつけで罵倒してくる頭の硬い年長者。
根拠のない自分ルールをお仕着せそこからくる思い通りのレイアウトにしないと許せない先輩。
必ず一回はやり直しを命じる癖に基準がその都度変わるから対策もできずいつも不機嫌ですぐにキレるモラハラチームリーダー。
どうやら二番のAメロに関してはそういうありふれた支配構造、閉じた世界のいじめとは違ったタイプのせいふくがテーマなのかもしれない。
この場合はその加害者は複数とは限らずまた被害者も1人とは限らない。
先程のチームリーダーの例ではチーム三十人くらいが次々と辞めて最終的に十人くらいで回したがその全員が口を揃えて「あの人はおかしい」と言っていた。
しかし結局納品まで改善されなかった。
そういういじめとは違うタイプの支配、せかいせいふくについて、2番はまず歌っているのだ。
恋人も侵略者も〜
これも最初よくわからなかったが、どちらも肉の塊=同じということは、と考えると、「恋人」というものと「侵略者」というものが「同じ」であると言っているのかとやっと気づく。
恋人と侵略者は同じ、恋人 = 侵略者である。
言われてハッとなった。
例えばメッセージに即レスを求めるような恋人やこう言う人になってほしいorあってほしいと要求する恋人というのは露骨に侵略者である。
仮にそういったことをしない恋人であっても変わらず侵略者であると言える。
例えば恋人ができて服装が変わったり、趣味が変わったり、価値観・考え方が変わったり。
それは自分というものの変化。
自分というものを侵略されていると言えるわけだ。
自分という世界を征服してしまうほどの恋人もあるだろうし、そういう恋人による変化は、確かにありふれているといえる。
恋人ができるということは自分の世界を侵犯される侵略者者ができると言うことなのだ。
そして自分の世界は征服される。
それを肯定的に捉えているならば言い方は「変化」などに変わろうが、実際に起きていることは同じなんだ。
サーロインや燕の巣もきみのもの
どちらも金がかかるグルメであり、高級食材のイメージが強い。
サーロインはまだしも特に燕の巣に至っては顕著だろう。
きみのものというぐらいに、そんなもん日常的に食べられるようなお金持ちや権力持ちになる為には…?
スパイの通信記録はシークレット
欺瞞に加担しなければならないということかな。
しかしスパイの通信記録と来たか。
なぜここでいきなりスパイ?
思い出してほしいがこの曲の歌詞の最後に「陰謀論」が出てくることから、この曲の作詞時点でピノキオピーは陰謀論を色々と知っていたと思われる。
「スパイの通信記録」と「ありふれたせかいせいふく」という語を併せて考えると真っ先に思い至るのが、かつて陰謀論やフィクションで語られていたアメリカによる世界中の通信の監視、諜報活動というものであろう。
アメリカが世界の全ての通信を傍受しているといった陰謀論、創作ネタだったのだが、この曲発表の翌年2013年6月にはエドワードスノーデンによってその実在が告発された。
この曲の投稿は2012年であるので諜報活動をしているもの同士の通信記録、つまり真実を語る通信記録「スパイの通信記録」は「シークレット」なのである。
陰謀論とされる真実を秘匿することでサーロインも燕の巣もかっこいいこもかわいいこも思い通りにしてる連中がいたとしても、何も不思議ではない。
何せ実際にかつて陰謀論とされた北朝鮮拉致被害者やら米国による国際的に通信の監視は実在したのだから。
そしてわたしはフィクションのような体験をしている。
兄による幼稚園生〜小学6年生までの児童淫行、姉による毎日の暴行と罵倒、挙げればキリがない。
平和な世界に従っていればうまくいってきた人達には理解し難いだろうし理解する必要性がないので正常性バイアスも相まって本気にしないだろうが、この世の中は信じられないほどの悪意と欺瞞で彩られているのである。
ゴシップ扱いされていたジャニーズの性的搾取だって実在したろう?
それがあるとされては困る者達が権力で情報統制しているだけで、現実にこの世の中はさして安全健全公正も何も保証しちゃいないし、人々は他人がどうなろうと知ったこっちゃないと言うのが本音であるから、蓋を開ければフィクションも真っ青なグロテスクな地獄がすぐ隣に息づいているのだ。
平和な人たちが羨ましい。わたしもそちらに生まれたかった。これはCメロに繋がる考えなのでここまでの述懐は無駄話ではなかったとこじつける。
脱線ついでに触れると2023年現在はAIを駆使すればその膨大な情報を処理することはより容易であろうと思われ、noteに投稿した内容なんて勿論として、そのアカウント情報たるメールアドレスやパスワード、IPアドレスから、ISPに保管されている個人情報まで、全て筒抜けであろうことと思われる。
暗号通信の規格などを作っているのだってアメリカであり、その教育資材、情報を発信しているのもアメリカなのだから、アメリカが実はバックドアのあるシステムや抜け穴のある規格を提供し、日本の高度な技術者達へ開示する情報を偽装すればそういう技術者からのお墨付きだって何の意味のないものになる。
頭のいい、というか、学歴が高い人ほど与えられた環境、当たり前疑わずに生きてこられた可能性が高く、概して懐疑的思考が弱いと思われるので、気付けないと思われる。
脱線しまくったすまん。
怖い怖い 怖いのは嫌だから眠っていたいじゃない
そしてそんな欺瞞に満ちた世界は怖いから何も見ず聞かず知らず閉じこもって眠っていたいじゃない、と。
うれしいもかなしいもわるふざけも全部四六時中監視される日が来るの
脳内の感情もやることなすこと全部監視される日が来ると。
もう来てるかもしれない。
誰もその流れに逆らえない。
打破する術もない。
だからやっぱり「誰か 誰か みんなを助けて」。
またしてもだが「わたしにはできない」し「それをできる人をしらない」のだ。
そしてみんなを、なのだ。わたしをとか、あのひとを、ではないんだ。みんななんだ。
佐藤さんも鈴木さんも歌おうらんらんらんらん
言わずと知れた日本のありふれた姓である。
こうなったらヤケとばかりに歌おうと提案している。
学習性無力感というか、どうにもできないからせめて、楽しいことをして気を紛らわせようと呼びかけているようでもある。
いつか いつか 名前も忘れて
皆が監視されて統制されるようなディストピアは画一化されたシステムがIDでで固体を識別できればよく、文字列よりも値の方が合理的なのであれば名前は不要である。
そして個性は失われるか禁じられるか無視され必要性を失う。
だから名前も忘れてなのかな。
名前も忘れて ※別の捉え方
或いはそういう個人の感じ方や悪ふざけに一々文句をつけて規制するような人たち。ほら、Twitterとかにいそうな。彼らのやってることも極端に言えば四六時中の監視とも言い得る。
そんな風に相手を、個人の心を尊重しない機械的な風潮はやはり、個人間の繋がりを希薄にさせるのかな、名前を忘れてしまうくらいに。
最初のディストピア監視社会的な捉え方と本質的には同じことなのだけれど。
名前も忘れて ※また別の捉え方
2012年はみんながアカウントでやりとりするようになりはじめた先駆けの時代であって、ピノキオピーならば鋭くその気配を嗅ぎ取っていったのかもしれない。
とするとみんなが電子的なやりとりに終始するのだから、うれしいもかなしいも悪ふざけも全部ログが残りなんなら魚拓を取られ四六時中監視される。
そんな世界では実名を呼ばれる機会は減っていくからそれを意識して「いつか名前を忘れて」なのかな。
など。
まあでもそうはならなかったよね、フェイスブックのせいかなんだかんだ実名を良しとする風潮があるし。
それで言うと本来歌詞が意図したところを考えると言う軸からは外れるが、メタバースが極まった世界なんかはマジで実名を使う機会が減るかもしれない。
Cメロ 手を汚せば向こう岸に渡れる? 渡ったとて安泰か?
仲間になったらハッピーエンド?
学校や職場のいじめを想起させるが「感情や悪ふざけすら四六時中監視されるような日がきた社会とその征服者」にも言えることだろう。
仲間になったらそれで安泰なのか?
仲間になっても結局は監視されるのではないか?
仲間になってもいじめに加担する罪悪感は消えないしまたいつ標的にされるかわからないと言う規範に囚われてしまうのだから、それは支配からの脱却とは言い得ない。
例えばわたしが特定の団体に付け狙われ嫌がらせを受けていたとしたら、仲間になってもいいからやめてほしいと願うかもしれないが、仲間になれたとしてそれで万事解決と言えるだろうか?
だから「ハッピーエンド?」と「?」がつく疑問系なのだろう。
仲間はずれはどこへ行こう
いじめならいじめられてる人、前途のアメリカの監視網で言うとオバマ大統領(当時)の「アメリカの国民をターゲットにしたものではない」という旨の発言からアメリカ国民以外の人間、職場や家族での支配構造ならその支配の実害を受ける側。
仲間にされない、仲間はずれは絶対発生するし、決して仲間になれない、なることをゆるされない状況は実在し得る。
そういう仲間はずれには逃げる先もない。どこへ行こう、その答えはないのだろうか?
血まみれになったパスポート
単純に考えると諜報員などのパスポート。
比喩的に考えると「仲間になるため」つまり「そっち側にわたるため」のパスポート。
血塗れ…そのパスポートの取得には血まみれになるほどの迎合、加担が必要なのではないだろうか。
選択の瞬間はすぐそばに
そっち側に行く為に、血まみれになるかどうかを迫られる瞬間は、ありふれてすぐそばにあると危機感を煽っている。
決して他人事でもフィクションでも未来や過去の出来事でもなく現在幾度となくそういう選択はそこここでなされてこの世界は日々を費やしている。
仲間になるという行為には血塗れのパスポートが必要なのだ、血塗れになるほどの何かをする覚悟。
いじめで自殺する人とクラスメイトの関係を言えば見て見ぬ振りという見殺しをする選択の瞬間は空間的にも時間的にもすぐそばにありふれていよう。
もし陰謀論が語るような集団による嫌がらせ、ガスライティングが存在するとして、パスポートを得る手段とはなんであろう。
血塗れは何を意味するだろう。
何を差し出したら仲間にしてもらえるのだろう。
ピノキオピーは血まみれのパスポートを取りそっち側に渡っただろうか?
おそらく答えは だ。
なんて、ね。
大サビ 監視社会 誰もが常にせいふくされ続けている
「さよなら」も「おやすみ」も「また明日」も全部 つながらずに途切れる日が来るの
それらが繋がらない、それ即ち別れ、それも死別ではないかなと感じる。
我々は死に支配されていると言える。
ここまでの問題も全て霞むほど死に征服されている。
そしてここまでの問題が悪化して極まって至る場所もやはり死である。
いじめによる死。
家族や職場での支配による死。
監視社会の集団意志による死。
スパイ行為による死。
他殺にせよ自殺にせよ。
またそれが辛くて逃避すれば食べていけない。
やっていけない。
やはり突き詰めれば死に至る。
それにある集団から人が逃避することはその人と接触していた人からすれば死別ではなくともその時点でそれが「別れ」でありそれはやはり「さよなら」も「おやすみ」も「また明日」が繋がらないのかもしれない。
死。
それを逃れる術はない。
助けてくれる人もいない。
それはよくわかってる。
そこに一縷の希望もないからこれまでのように「誰か みんなを助けて」とは言えない。
だから
誰か 誰か 誰か誰か誰か
二の句が告げないのだ。
助けを求めて泣きじゃくり、両手を伸ばし彷徨ってる姿が脳裏に浮かぶ。
死からは逃れられない。
笑おうわっはっはっは
やはりどこか投げやりな感じがする。
もう笑うしかないね。
だって救いようも救われようもないんだもん。
ピノキオピーがわたしに近い死生観を持っているのは「余命2:30」や「神っぽいな」を見て確信している。
余命2:30でも言ってたでしょ?
「他人事だと思わないでね」
あなたも死ぬんだよ。
で、「人生のネタバレは死」だって理解して患ったら最後、もう無邪気に踊ってるだけではいられなくなるんだ。
「すろぉもぉしょん」的に言うとこの記事は今一万とちょっと、あなたは今生まれて何年?
田中さんも高橋さんも
姓については「ありふれた」姓を歌っているのだろう。
佐藤や鈴木は言わずもがな、田中も田中太郎に通じるし、高橋は謎だが確かにありふれている感はある。
ここにも意味はあるのかもしれない。
検索してみたらわかるかも、例えば多い苗字ランキングで4位とか、或いは単にピノキオピーの知り合いとか友達とか、或いは高橋という言葉に秘密があるのか。
ここだけは謎だと思って検索したら案の定多い苗字ランキングで3位だった。
単純にこれじゃん。
四位じゃなかったけど。
田中が4位だった。
ちょっと意外。
高橋って個人的はそれほどありふれた苗字って印象なかったんだけどな、わたしだけ?
まあここらへんは個人差があるでしょう。
因みに1位はご存じ佐藤で、鈴木は2位なんだって。
へぇ。
「ありがとう」も「おはよう」も「ごめんなさい」も全部
懐かしい言葉になる日が来るの
一番と同じだがここに持ってくることで意味合いが変わってくると言うか程度感がより大きくなると言うか。
一番ではいじめの世界で懐かしくなる程度のものだったが、ここまできてそれを言われると日本語という文化が淘汰された世界を連想しちゃうな。
イーロンマスクが「出生率が死亡率を上回らなければ日本は消滅するだろうと」警告するずっと前から、統計で数百年後には日本の人口はこのように推移して消滅しますというデータは公表されていたし、イーロンマスクの言う通りそれは「当たり前にわかること」のはずなのだ。
陰謀論の一つはそれが仕組まれた「日本人殲滅計画」であると言うが仮にそうにしたってそうでないにしたって、その「事実」は小学生でもわかるさんすうに過ぎない。
日本語話者の大多数は日本人なので日本人がいなくなれば「ありがとう」も「おはよう」も「ごめんなさい」も、そういった日本語は「懐かしい言葉」になる日が来るだろう。
最早1番のように、個人やその時の日本人の感覚としての懐かしいから世界的な事実としての懐かしいになってしまうだろう。
しかし少子化対策は進まない。
トー横など、他にも未成年と話したりするたびに感じているが、明らかに風俗は過去最大レベルで乱れ、貞操観念は破壊され、性の低年齢化と娯楽化は急進していて止まる様子を知らない。
年齢でスマホや通信機能のあるゲーム機などの通信機能を規制したりしなければこの潮流は停止し得ないだろう。
大人達が思ってるほど子供達は純粋でもなければ無知でもなく、親世代より平均身長が伸びてるように知能なども我々が同年齢の頃よりもずっと高いと思わせられる。
彼らに生半可なペアレントコントロールなんて通用しないしウチだけ禁止なんてしようものならそれこそいじめられる原因になるのだからまずはその「みんなと同じでなきゃダメ」という日本人の悪癖を修正しなきゃならんがそれができたら苦労しないし「誰かみんなを助けて」なんて言ってないわけで。
それに国単位で法律や条例をもって規制したとしても今度は国際社会から置いていかれる。
性が低年齢化していても娯楽化しておりただただ刹那主義の快楽の関数として実行されているだけなので出生という出力に寄与するようにはなっていない。
むしろ悪戯に恋愛市場に混乱と破壊を招いているだけでそれは出生率を下げこそすれど上げることはしないだろう。
出生率を上げるには2人以上、できれば三人以上の子供を育てることに親世代となる人々に意義と安心感を持ってもらわなければならないと思うがそれは無理難題というものだ。
娯楽が充実した現代、恋愛や性行為の優先度は昔ほど高くないであろうし、基本的に景気が悪いので子供を持つと言う選択に躊躇してしまう、そもそもタイパ主義なんかが流行るような効率厨が子育てという非効率に積極的になるとは思えない。
現状でも税法などで子供を持つ利点はあるのだろうがなんというか、ニコニコ動画みたいなやり方をしている印象が否めない。
余計なものを省くためとか当たり前のことができるようになる為にプレミア課金したいとは思わず、それでもなおプレミアになるとしたらそれは明確な強い目的と記事があるからとか、金に困ってないからなんじゃないか。
避妊技術や堕胎技術の向上が良くも悪くも責任を伴わない遊びのセックスがし放題な状況を作り上げ、スマートフォン発達による情報通信の簡便化が遊びのセックスを助長し、子供を実際に持たずとも性欲を発散させることは難しくなく、本能に誤魔化しが効く。
男どもに子供を育てたいと論理的に思わせる方法なんて正直思いつかないし、女は兎も角女性の社会進出や真の平等な権利自体はわたしもそうあるべきだとわたしさえ思うので古式騒然とした女は家庭に入れみたいな昭和的思考が通用する時代でもないし。
妊娠を男ができない以上は女性に一方的に懐妊〜出産というリスクやリソースを押し付けてしまう問題があるし、それで産んでじゃあだれが育てるのとか面倒見るのとか。
なんだかんだ自分みたいなクソ経歴にならない為にはそれなりに安定した家庭はやっぱり必要で22歳くらいまでは共親で一軒家の実家があって包丁が出るような家庭内暴力とか兄弟の陰茎を口淫させられるような児童咽喉が起きえないような家庭整備は必須なんだがそれを確実に行える銀の弾丸などもないしな。
日本は技術の国だと言うのならば恵まれた環境で育った賢い人達はこの問題解決の為に人口母体の開発、育児システムの規定、関係法整備、恋愛や性行為を不必要とする人口的な出生に関する民意の誘導など、文系も理系も本気で頑張ってくれないと、多分今の人間に依ったやり方では日本の少子化は解決方法がないと思うよ。
そういう機械的な子作りにも諸問題が生じるだろうがそんなものは起きてから対応すれば良い、例えば金持ちは従来の出生を使うことによる「おまえは機械生まれ〜」みたいな新たな差別とか思いつくけど、オールグリーンにならないとゴーサインが出せないのは日本人の悪癖だと思うね。何かの目的にを果たすなら常になんらかの犠牲や代償はつきものであって、日本民族の絶滅を避けると言う目的の為に例えば女性の人権を侵害したくない、既得権益も崩したくないからこれ以上の助成もできない、というのであれば想定される問題があっても人口母体や育児ロボットを研究する予算くらいは捻出して実用化するしかないんじゃない?
ついでに食料問題も技術立国日本の技術力!とやらで解決して、そうすれば一々男女間の心情の一致だとか個々の経済事情だとかを考慮せずともよくなるんじゃね知らんけど。
そう言うことができないならば高学歴の恵まれた人達もやはり環境因子によって与えられたものを享受しただけの有象無象でしかなくどれだけ偉そうにしても社会に革新を与えられもしなければ緩やかな衰退に享受しつつ曖昧な刹那を誤魔化して生きただけの自己満足集団でしかないってことになってしまうんだからせいぜい頑張って欲しい。
大丈夫だ人間の想像したことは大抵実現できると言うじゃないか、偉そうな賢い人達ならすれくらい実現できるはずだよね。
めっちゃ話が逸れた。
陰謀論もガスコンロも
ハッキリあからさまに陰謀論という言葉が出てきた。
いじめの歌だとだけ解釈してた頃のわたしには、ここはサーロインやパスポートやらに並ぶ謎地帯だったが、今ならわかる。
「陰謀論」には様々なものがあるがどれもに共通して言える本質というか根幹というか、行き着くところがある。
それこそは「せかいせいふく」である。
その手法や黒幕こそさまざまなパターンがそれこそ陰謀論者の数以上に存在するだろうが(人数以上というのは1人の陰謀論者が複数のパターンを並列で懐きうることから)結局はそこに行き着く。
「ガスコンロ」というのはなんのことはない、冒頭でも書いたが陰謀論にも関係する言葉「ガスライティング」をいい変えているだけだ。
しかしただの言い換えでは留まらず「ガスライティングを行うもの」として発生装置たるガスコンロのしたのだろうとわたしは睨む。
陰謀論やガスライティングというのは個人の監視、世界征服の最も巨大であり、かつ同時に最もありふれた形ともなり得る。
もし陰謀論的なガスライティングが事実であるならば日本中、世界中に工作員がおり毎秒誰かが誰かを監視し支配下に置いていると言うことだ。
それほどまでに「ありふれた」せかいせいふくはこれまでのせかいせいふくが霞んで見えるほどの「解決不可能性」と「対象の多さ」を持っている。
もしそんなせかいせいふくがありふれているのであれば、それを実行している人間もまたより上位の者の監視下にあり、単純なピラミッド的支配構造で終わるようなものとは到底思えないことから、全人類が相互にせかいせいふくの被害者かつ加害者たり得るとさえいえよう。
監視統制しようとするものをまた監視統制しようとするものをまた監視統制しようとするもの…というふうに無限にループする。
それは自身の尾を飲み込む蛇のように終わりのない循環をした構造をしているのではないかな。
まあもし仮にあればだが。
よしんばこの曲が作詞された頃や、或いは2023年今現在実在しなくとも、可能となった時点からそれは実行されるだろう。
なにせ少なくとも米国による通信傍受は実在したのだから。
らったった
一番にも出てきたがこれは「rat-a-tat-tat」という英語圏の言葉だ。
英語といえばイギリス、アメリカ。
英語がアメリカ語と無知な幼子に評されるほどには英語にはアメリカのイメージがある。
アメリカは陰謀論の本場である。
日本に限らずグローバルな大規模な問題であることを示唆してる…かも。
これは先述したことだが陰謀論の一つに「日本人を絶滅させるプロジェクトが動いている」というものがあり、それでいえば「さよなら」とかそういった「日本語」が、話者のいない、「懐かしい言葉」になる日がいずれ来る、という意味を込めて敢えて「rat-a-tat-tat」という英語圏の言葉を使ったのではないかな?
知らんけど。
流石に考えすぎ?
しっかし、陰謀論が流行ったのって2012年よりはもう何年か後だった気がするから、やはりピノキオピーには先見の明があるなと。
これは「決して冗談だが」陰謀論が真実だとするとピノキオピーは血塗れのパスポートにより陰謀論の加担側に回っておりその一端を知りこの曲を書いたのかもしれない。
或いはこの曲自体が血塗れのパスポートだったのかも!
なんてね。
しかし、そういう陰謀論やガスコンロに対しても「踊ろう」と言っているんだ。
これは一見、それらの実在を考える者にも踊ろうと投げかけているように見えてその本質は恐らく異なる。
再三となるがガスコンロは、ガスライティングそのものではなく、ガスライティングを実行する者を指していると考える。
陰謀やガスライティングを実行するものにも踊ろうと呼びかける。
いじめを受けている14歳や40歳に踊ろうと誘ったように。
みんな同じ、いつか死ぬ、別れがあるということを突きつけどいつもこいつも笑おうと言ったすぐ後に。
つまり、陰謀やガスライティングを行う者も「同じ」なのだと。
征服を行なっているものも、実はより上の階層に征服されているだけなのだと。
そういう風に全人類は、世界は全て、征服されている。
そうした征服の機構とかそういった人以外の規範でさえも、全てひっくるめて全てはいつかくる終焉、死に征服されているともいえる。
まさしく空、すべてのものは移り変わり、執着を手放しあるがままを認め諦めることこそが悟りなのかもしれない。
しかしそんなことは普通の人間には難題な実践可能性の低い難題なのだ。
だから願わずにはいられない。
どうかみんなを助けてと。
最後の「誰かみんなを助けて」のみんなは、これまでで一番の規模の、本当に本当のみんななのだ。
全てを助けてあげて。
いや。
助けてほしい。
そういう諦観混じりの願いにも似た思いがそこにある。
誰もそんな事で気やしないこともわかってる。
もうどうしようもない事はわかってる。
それでも抱かざるを得ない。
だから何度も何度も言ってしまうんだ。
誰かみんなを助けて。
と。
「ありふれたせかいせいふく」はどうしようもない普遍的な幾つものせかいせいふくを歌っている。
この曲が大好きだ。
はじめはいじめられてる学徒を思わせ。
次に会社や組織や家族間で立場が上だったり凶暴で威圧的な人間に支配されている構造を垣間見せ。
恋人というものすら実は侵略者と同じではないかという知見を与え。
仲間になるには血塗れにならなければその資格が与えられないという、曲がらなければ世は渡れないという示唆もあり。
誰もが別れや死というものに征服されていること。
最後には全人類が世界征服の只中にいることを皮肉にも似た感触で示している。
いじめをしている側も、イライラポイ捨てをするような人間も、それらをされてる側も、陰謀論者もガスライティングを行うガスコンロも、みんな同じ。
ありふれたせかいせいふくのただ中にいる。
「自分は関係ない」
そんなことはない。
そう思う人間もことごとく、そしてすべからく、せいふくされているのだ。
それはいじめと同じで、ターゲットが消えれば次のターゲットに移行するという側面でもそうであり。
より上位の征服者には下位の征服者はターゲットでしかないという残酷なこの世界のディストピアな構造を静かに物語ってもいる。
社会を取り巻く、悲しく受け入れがたく、けれど静かに横たわるグロテスクな諸々の暴虐の風刺。
そこに解決策はないがみんなを助けてほしいという願いを叫ばずにはいられないという、絶望と諦観と懇願めいた祈りのないまぜになったようなそんな思いも感じられる。
この監視と欺瞞に満ちた社会。
普通に生活しているだけで征服されている。
だから「ありふれたせかいせいふく」である。
そしてそれを逃れる術も例外もない。
あなたもわたしも被征服対象であり被害者かつ加害者だ。
「いじめの歌」だなんてとんでもない。
これを読んでいるあなたも、途中でやめた誰かも、知りもしない人もみんな、せかいせいふくの中にいることを、この曲は知っている。歌っている。
ところでここに動画あんだけど、聴いてかない?
序盤のパンニングがイカしてるよねって10年言ってる。
この歌が歌っているのはつまるところ、常に強者が弱者を征服するという世界の機構だ。
他の生物にも言えることだが、それは人間が持つ普遍的で不変の本能でもあると思う。
弱者が救済されることはあらず、強者が誅されることもない。あるとすればそれはフィクションか、より上位の強者にとってそれが好都合だからでしかない。
やられる側はたまったものではないが、やる側は知ったことではないという絶対的な無理解というか、無慈悲というか、無関心というか、他人事、自己責任主義がそこに横たわっている。
征服者はそこここにありふれており、そして上には上があって、征服者は同時に誰かに征服されているという終わりのない構造がある。
たとえ一番上に辿り着けたと思えても、それは仮初のものであって、ほぼ同率の征服者たちの意向を無視できるものではなく、いつ立場が脅かされるかわからない疑心暗鬼の世界が待っているだろう。
逆に下の下は見るも無惨で悲惨な末路を辿る。
弱ければ弱いほど食い物にされ、誰も理解も共感もせず、ただただなす術もなく世界に征服され続け、朽ちて殺されるのである。
どこに逃げても、そして誰であっても征服から逃れることはできず、それに気づけないお花畑か、自分の位置に満足できる者達だけが偽物の安寧を得るだろう。
本当に誰か、みんなを助けてほしいと願わずにはいられない。
しかしそれは不可能なのだ。
征服は続く。
制服が終われば次の征服。
征服の上には征服がある。
それがない場所はない。
逃げ場なんてない。
果たしてあなたは何に征服されているであろうか?
ところで、初音ミクwikiなどでピノキオピーの古い楽曲(人間なんか大嫌い、など)ついての情報を確認していると、「ガスコンロ」というグループがありピノキオピーがそこと関係していたことがわかる。
だからといってピノキオピーが態々陰謀論とガスコンロを並べて書いている事実に代わりなく、「言い訳できるギリギリのライン」を攻めているのではないか。
それこそ血塗れのパスポートを得る為に。
「なかまはずれ」にならないように。
「仲間内」に入る為に。
寧ろそのガスコンロなるグループの名前の由来が…。
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