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【書評】サマセット・モーム『雨』は、エロティックな妄想力を鍛えてくれる秀逸な短編だった

ロッシーです。

最近、サマセット・モームの短編にはまっています。

今読んでいるのは、光文社古典新訳文庫の短編集です。

まずは有名な『雨』を読みました。

傑作と言われているだけあり、とても面白かったです。あらすじは、ざっくり言うと、以下のような感じです。

狂信的な布教への情熱に燃える宣教師が、任地へ向う途中、検疫のために南洋の小島に上陸する。彼はここで同じ船の船客であるいかがわしい女の教化に乗りだすが、重く間断なく降り続く雨が彼の理性をかき乱してしまう……。

雨・赤毛: モーム短篇集(I) (新潮文庫)


※以下ネタバレ注意


この作品のオチは、読んでいてすでに予想していたとおりでした。というより、上記あらすじの「彼の理性をかき乱してしまう……。」を見れば簡単に想像はつくのではないでしょうか。

宣教師はいかがわしい女(売春婦)を教化しようとして、結局はセクシャルな関係をもってしまうわけです(明確には書かれていませんがおそらくそうでしょう)。

単にそれだけなら、この作品はそれほどたいしたことはないと思います。

この作品が傑作なのは、実際に二人の間に何が起こったのか? について、読者の妄想を搔き立ててくるからだと思います。

「あんなことやこんなことを話して、そしてこんなことをやったんじゃないか?いや、もしかしたらあんなこともさせたのかも・・・」

なんて色々と(エロティックな)妄想をせずにはいられないんですよね(笑)。

そして、

「もし自分が宣教師だったらどうしていただろう?」

なんていうことも妄想せずにはいられません。

ムッとする湿度の高い南の島で、絶え間なく降り続ける雨の中、肉感的な売春婦の生殺与奪の権を握ったとき、自分はどうするのだろうか?

そんな意味で、この作品はかなり妄想力を鍛えてくれると思います(笑)。

それにしても、この宣教師に代表されるような人間、つまり善と悪をはっきりと分けるタイプは、一見すると自分軸がしっかりしていて強そうに見えますが、案外脆いのでしょうね。

竹のようなしなやかさがなく、ある瞬間にポキっと折れてしまう。そんな感じがします。

そういう意味では、夏目漱石の『こころ』に登場する「K」と、この宣教師には類似性があると思います。

Kは、「精神的に向上心のない者はばかだ」とのたまう求道的な青年でしたが、お嬢さんに恋をしてしまった自分自身を許すことができず自殺しました。

そこに見えるのは、

向上心のない者 = 恋をした者 = 悪

という風に、善と悪をはっきりと分ける硬直的な考え方だったわけです。


善悪二元論で捉えると、自分自身が善であると思いたくなるのでしょうが、そもそも善悪というのも人間社会における便宜的な概念であり、かつ時代とともに変わる流動的なものです。

本来は善とか悪とかそう簡単に割り切れるようなものではないわけですから、善も悪も包容するような、ある種の融通無碍的な捉え方をするほうが適切なのではないでしょうか。

そうでないと、「自分は善であり、あいつは悪だ。」というジャッジをしてしまいます。

自分が善であると思っている人間ほどたちの悪いものはありません。「もしかしたら自分も悪ではないのか?」という疑いがないからです。

そういう人間は、ためらいなく大きな「悪」をなしてしまうものです。ユダヤ人の大量虐殺において重要な役割を果たしたアイヒマンがその良い例でしょう。

そういう無自覚な悪人よりも、自分自身の悪に自覚的である人間のほうが、世の中に害悪をもたらす程度は低いような気がします。

親鸞の悪人正機説では、「自分はダメな人間である=悪人である」と気付いた人に、より仏様の救いの手が差し伸べられるといいます。そこには、自分を善人だと何の疑いもなく思い込んでいる人間に対する批判が込められているように思います。

私は、もしも自分が宣教師と同じ立場だったら、あんなことやこんなことをしている可能性を認めます。もちろん、本当にその場にならないと分かりませんけど(笑)。

逆に、

「俺は絶対に宣教師みたいなことはしない自信がある!」

という人には、ちょっと怖さを感じますね。

あなたはどちらでしょうか?

最後までお読みいただきありがとうございます。

Thank you for reading!


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