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【書評】夏目漱石『門』は暗くない。実はポジティブな小説である。

ロッシーです。

夏目漱石の『門』を読みました。

言わずもがな、『三四郎』『それから』『門』の漱石三部作の最後の作品ですね。

夏目漱石の作品に関する論文は、それこそ腐るほど存在しています。彼の文学作品に関する論文がまた別の論文を呼び、結果として関連する研究がどんどん積み重なり、圧倒的なシェアを獲得していくわけです。いってみれば、日本文学におけるGAFAMみたいなものですね。

そんな状況ですから、私ごときが書評を書いたところで浜辺の砂粒ひとつくらいの価値しかないのでしょうが、書きたいように書きます!


結論から

まず、結論からさっさといきましょう。

結論:『門』は実はポジティブな小説である。

『門』を読んだ人の多くは、「暗い」「ネガティブ」という印象を受ける人が多いと思います。しかし、私はそうではないと考えています。

この小説のラストの部分(宗助と御米のやりとり)を見てみましょう。

御米:「本当にありがたいわね。漸くの事春になって」

それに対して宗助はこう言います。

宗助:「うん、然し又じき冬になるよ」

これで小説は終わります。

普通に読むと、「なんとまあネガティブなエンディングだろう」と思ってしまうでしょう。

しかし、私はあえて言いたい。この宗助のセリフはポジティブなのだと。

以下、その理由を説明していきたいと思います。

登場人物とメタファー


まずは、この小説の登場人物と、それが何のメタファーになっているのかを書きます。

  • 宗助:主人公(日本)

  • 御米:宗助の妻(理想)

  • 小六:宗助の弟(日本の将来)

  • 清:召使い(中国)

  • 佐伯夫妻:宗助の叔父叔母(伝統的共同体)

  • 佐伯安之助:佐伯夫妻の一人息子(日本の将来)

  • 安井:宗助の友人(日本の伝統的価値観)

  • 坂井:宗助の家主(グローバリズムにおける成功者、勝ち組)

ざっとこんな感じです。

舞台構成

そして、この小説を「経済」「伝統」「グローバリズム」といったキーワードで見ていくと、以下のような舞台構成になっていると解釈できるでしょう。

  • 近代という時代に適応するため、宗助(日本)は、安井(日本の伝統的価値観)よりも、個人主義、グローバリズムを理想としてすすんでいくことを決意した。

  • しかし、完全に伝統的価値観を捨て去ることはできていない。宗助が論語を読んでいるのはその証拠。安井は消息不明だが満州に渡っている(まだ消滅していない)。

  • グローバリズム的世界では、伝統的共同体の象徴である佐伯夫妻は宗助にとって何ら助けにはならない。それどころか、宗助の父親の遺産処理においてはマイナスの影響しか与えない。

  • 小六は日本の将来を担う存在だが、伝統的共同体である佐伯の叔父は亡くなってしまい、叔母から学費を打ち切らざるを得ないと言われてしまう。グローバリズムにおいて必要なのは「金」なのである。

  • 小六は宗助を頼るが、宗助にはグローバリズムを生き抜くマネーリテラシーがない。冒頭部分において、「近来」「今」という文字が分からないという描写があるが、これは「時間感覚を喪失している」ことに他ならない。時間感覚の喪失は、「金利」という概念の喪失にもつながるわけで、それはマネーリテラシーの欠如を示す。当然ながら、経済的に成功することはできない。父親の遺産を叔父に丸投げしたり、屏風を安く買いたたかれることでもそれが良く分かる。

  • マネーリテラシーがないため、宗助と御米は日当たりの悪い崖の下で賃貸暮らしをする境遇であり、宗助は現代のサラリーマンのような生活を送っていて余裕がない。つまりグローバリズム的にいえば「下層階級」に属している。一方、崖の上に住む坂井は経済的に成功した者となっている。崖の高低差により社会的地位の格差が表現されている。

  • 宗助は坂井に家賃だけではなく、父親の遺産である屏風も間接的に搾取されている。もちろん、これは宗助のマネーリテラシーの欠如が原因であり、坂井には罪はない。また、宗助の向かいに住んでいる本多という隠居夫婦も坂井に搾取されている存在である。

  • 本多家は「朝鮮統監府の息子が仕送りをしてくる」との描写があり、朝鮮から搾取をしていることが描かれている。そして、宗助は清という召使を使っていることから、名前のまんま清国、つまり中国から搾取していることが描かれている。そんな両家から最終的に搾取しているのが坂井という風に、搾取の食物連鎖が描かれている。

  • 宗助と御米には子供ができない。「子供がいない=未来がない」ということになり、同時に経済成長もできないことを意味する。それとは対照的に、経済的に成功している坂井は子だくさんである。

  • 小六は宗助に頼るが、どうも助けにならないため、仲の良い安之助に頼ったりするがうまくいかず迷走状態。つまり日本の将来も迷走状態ということになる。

以上がこの小説における舞台設定です。

泥棒事件

さて、このままだと何も話が始まりませんから、何らかのイベントが必要です。それが、泥棒事件です。ここから物語は動き出します。

  • ある日、坂井家に泥棒が入り、手文庫と金時計を盗み出す。手文庫は「言語」、金時計は「時間」を意味する。いずれも、それなくして経済発展することはできない重要なものである。言語を失えば自分のアイデンティティーを喪失し、時間を失えば、マネーリテラシーを喪失してしまう。

  • 坂井にとって重要なアイテムである手文庫を宗助が見つけてあげることで、坂井と宗助との間に交流が始まる(金時計は泥棒が勝手に返してくれた)。これまではお互い全く関係のない世界にいたことを考えると相当な変化である。後々、宗助は坂井との縁により甲斐の国から来た赤毛の男(欧米諸国の象徴)から反物をお得にゲットし、御米も喜ぶ。グローバリズムにとって、外国との貿易がいかに経済発展に重要かを示している。

  • とうとう小六が宗助の家に越してくることとなり、御米の使っていた部屋のスペースを小六にとられてしまう。小六という現実問題だけが増える一方で、御米はストレスがたまり体調がどんどん悪くなる。もう眠り続けるしかない。

  • そんなとき、坂井の弟の知人がなんと過去に宗助が裏切った「安井」であることが判明する。安井との対面を恐れ、宗助ピンチに陥る。御米は体調不良、小六の処遇にも困る。金はない。八方ふさがりである。

  • 宗助は、マインドフルネスに活路を見出したのか、友人のツテで鎌倉の禅寺で座禅をすることを決意。公案として出された「父母未生以前本来の面目」(生まれる前から、人々が備えている心性)について一生懸命考えるが、宗助は結局何も見出すことができずに寺を去ることになる。

  • 寺を去って家に帰ってみると、物事は全て解決していた。坂井の弟と安井は蒙古に帰り、小六は坂井家で住み込みの書生になった。宗助も長期休暇をとったわりにリストラされずにお役所の給料アップ。御米の体調も良好。

  • そして、最後に「またじき冬になるよ」と答えて終わり。

時間感覚を取り戻した宗助

結局、最終的には、宗助が抱えていた諸問題は解決されました。小六の件が解決し、宗助の給料もアップしていいことづくめです。つまり、経済的な観点では物語の最初と最後では大きく改善されているわけです。

※もちろん、安井がまた戻ってくる可能性はありますから、その点は解決していません。しかしこれでいいのです。日本の伝統的価値観である安井の存在は必要なのです。それを完全に捨て去って、日本がグローバリズムに追従することは、夏目漱石の価値観とは一致しないからです。

では、なぜ問題が解決したのでしょうか。

その大きな要因は、禅寺での修行だと思います。

「父母未生以前本来の面目」という公案を一生懸命考えても、宗助は悟ることができませんでした。では失敗だったのか?というとそうともいえません。悟る以外の大きな効用があったからです。

それは、時間感覚を取り戻したことです。

冒頭部分に、宗助が「近来」「今」の字が分からなくなったという描写があります。これはすでに述べたとおり、時間感覚の喪失です。

しかし、最後のセリフはどうでしょうか。

「またじき冬になるよ」

と言っています。

春になったとたんに、次の冬について思いを巡らすことができているわけです。これは宗助が時間感覚を取り戻したことを示しています。「父母未生以前本来の面目」について考えたからそうなったのです。

この公案を考えると、当然ながら自分が存在する前だけではなく、両親の生まれる以前の時間について考えることになります。そうなると、原理的には自分の両親の両親のそのまた両親の・・・とずっと時代を遡っていき、人類が生まれる以前、生命が誕生する以前、この宇宙が誕生する以前・・・について考えることになるはずです。

そういうことを考えていけば、時間感覚を取り戻すことは必然でしょう。

時間感覚の喪失が、マネーリテラシーの欠如につながっていたわけですから、時間感覚を取り戻したことで、マネーリテラシーが向上するのが道理となります。

宗助の未来

さて、今後の宗助はどうなるのでしょうか。

おそらく、これまでよりは経済的に恵まれていくでしょう。役所の給料アップなどはその端緒といえるでしょう。

つまり、「またじき冬になるよ」というセリフは、暗いエンディングのセリフとして捉えるのではなく、宗助が時間感覚を取り戻し、今後経済的に恵まれていくことを示しているのです。

そういう意味では、この小説は一見すると暗いですが、実はポジティブな内容なのです。

これはあくまでもひとつの解釈にすぎません。しかし、まったくありえない解釈ではないと思うのです。

夏目漱石の想い


夏目漱石には、近代という時代に適合するために引き裂かれた日本人の精神に対して、何らかの解決となる糸口を文学のかたちで提示したい、という思いがあったのではないでしょうか。

彼は、当時の帝国大学を卒業し、ロンドンへも留学したエリートです。つまり、明治という時代の国家を背負って立つことを自覚していた人間です。

坂の上の雲を目指して国民が一丸となっていくために、文学は何ができるのか?ということを常に意識していたのではないかと思うのです。

そんな人間が、「略奪婚をした人間には、ろくな未来がないんだよ」「禅寺行ったけど失敗したんだよ」という(つまらない)メッセージを伝えるために、『門』という小説を書いたとは、私にはなかなか考えにくいのです。

夏目漱石のメッセージ

宗助は、禅の公案に取り組むことで、問題解決を果たしますが、だからといって、夏目漱石が「禅がおすすめだよ」と言いたかったわけではないと思います。

彼が言いたかったのは、

「大きな時間軸の中で、日本とは何か、日本人とは何か、日本の問題とは何かについて考えてほしい」

そして、

「そういうことを考えることでしか、近代という「門」を乗り越えていくことはできないんだよ」

ということだったのではないでしょうか。禅はあくまでもその手段、きっかけの例示でしょう。


彼の想いを託された私達は、無事にその門を通ることができたのでしょうか。それとも、いまだ門の外に立ちすくんでいるのでしょうか。

最後に夏目漱石の言葉を。

「前後を切断せよ、みだりに過去に執着するなかれ、いたずらに将来に未来を属するなかれ、満身の力を込めて現在に働け。」


最後までお読みいただきありがとうございます。

Thank you for reading!

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