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【超人】1分で分かるニーチェ『ツァラトゥストラ』 (※やる気を出したい人向け)

ロッシーです。

ニーチェの『ツァラトゥストラ』は、書いた当の本人であるニーチェ自身が絶賛するほどの傑作です。

ニーチェは『ツァラトゥストラ』についてこう語っています。

私の著作のなかで独自の立場をもっているのが、私の『ツァラトゥストラ』である。私は『ツァラトゥストラ』で、人類がこれまで経験したことのない最大の贈り物をした。何千年もの先まで響く声をもつこの本は、この世に存在する最高の書物、高山の空気に満ちた本来の書物であるだけではない。
人間という事実の全体が、この本の、恐ろしいほどはるか下のほうに横たわっている。
この本はまた、もっとも深い書物でもある。もっとも内奥にある豊かな心理から生まれた書物であり、バケツを降ろせば、かならず黄金と善意がたっぷりくみ上げられる無尽蔵の泉である。

ニーチェ『この人を見よ』

『ツァラトゥストラ』の第1部、第2部、第3部を、ニーチェはそれぞれたったの10日ほどで書き上げました。何かがニーチェに降りてきて『ツァラトゥストラ』を書かせたといっても過言ではありません。

そんな『ツァラトゥストラ』ですが、ボリュームもありますので読みたくても時間がとれないと思います。

でもこの記事を読めば大丈夫です。
少なくとも読んだ感は出せると思います(笑)。

ちょっと乱暴な言葉遣いもありますし、個人的な解釈も多少交えていますがご容赦ください。それでは行きましょう!


「人間というものは、動物と超人との間に張り渡された1本の綱である。人間であることそれ自体が目的ではなく、乗り越えられるべきものである。それを「超人」という。

安逸な暮らしをすることなら猿でもできる。人間は、超人へ向かって己を乗り越えていかなければならないのだ。

しかし、どこもかしこも「末人」ばかりだ。幸福、隣人愛、勤労、健康、長生き、多少の快楽を大事にしている。それは本来の人間の生き方であろうか。

否、否、三たび否!

人間というものはそんな存在ではない。自分自身の身体、この大地を尊べ。

現実世界の背後にある「背面世界」を生きるのではなく、まずはこの現実世界を生きるのだ。

背面世界とは何か?それは理想化された世界や抽象的な真理、現実の世界を超越した理想的な存在のことだ。そういうものを信じる生き方はもうやめるのだ。なぜなら神は死んだからだ。

絶対的な規範などない。人生の意味を教えてくれる存在もいない。伝統的価値観や宗教が失墜し、人間は意味や目的を見失う。しかし、意味や目的は自分で創造するのだ。

なんの創造もせず、安逸な暮らしを死ぬ極限まで引き延ばすだけで良いのか。そんな末人的な生き方はやめて超人を目指すのだ。

そんなことを言ってもこの世は虚しいと?
どうせこの世は苦しみしかないと?

そうやってニヒリズム(虚無主義)に陥ってしまうのは分からなくもない。かつては私にもそういう時期があった。しかし、それでは何も変わらない。

そう考える者たちは、「己を虚しくすること」「何もしないこと」「欲望を無くすこと」・・・そんな生き方をするようになる。

しかし、私達は生きている以上、力への意志を捨て去ることなどできない。

なぜ生きているうちから死人になろうとするのか?生きているのだから、自分を肯定し生きるべきだ。いつしか人は死ぬのだから死んだ後でたっぷりと休めばよいではないか(笑)。

いかにもこの世を悟ったような態度をとっている者たちに告ぐ。そうやって、厚い憂鬱の毛皮につつまれて、死をもたらす小さい偶然を待ち焦がれている者たちに告ぐ。

お前たちが、それほどこの世に嫌気がさしているのであれば、さっさとこの世から去ればいい。しかしそうしないのはなぜだろう。それは、人生に何らかの希望を抱いているからではないのか?

だとすれば、その希望の種火をもっと燃やし、力への意志を肯定しよう。それこそが自然な生き方なのだ。

「人生は苦しみだ」というものがいる。私もそれは否定しない。

だからといって苦しみから逃れるために「自由が欲しい」と逃避するのは違う。

そんな自由に何の価値があろう?何かから逃避するための自由に私はなんの関心もない。私が問いたいのは、その自由は「何のための自由か?」ということだ。

自由になったあげくスマホをいじるくらいしかすることがないなら、そんな自由は捨ててしまったほうがよい。

逃避するのではなく、「そっちがそう来るならかかって来い!」と言って、人生に立ち向かおうではないか。

どんなに苦しい人生であっても、「よし、これが人生か。ならばもう一度!」と言える人生を歩もう。それを「永劫回帰」という。

超人をめざす生き方は、末人達が非難することだろう。彼らが一番恐れるのは創造することだからだ。

しかし、決して彼らを批判してはいけない。自分の道を孤高に歩め。そしてどんな困難があろうとも、自分の中の英雄の魂を投げ捨ててはいけない。

その道は困難だろう。最大の敵は自分自身となるだろう。しかし悲壮感をもって重苦しい顔をすることはない。

笑え!そして軽々と踊るのだ!大いなる哄笑を高山から響かせろ!」


以上です。

こうやって改めて見ると、カミュとニーチェはなんだか似ていると思いました。

神がいない不条理の世界において、反抗を主張するカミュと超人を主張するニーチェ。

自分で人生の意味を創る時代には、色々な考え方があると思いますが、私はどちらの考え方も好きです。

さて、ここ最近「頑張らない生き方」的な思想が流行りのような気がしませんか。noteでも、どちらかというと「脱力系」の記事のほうが好評価になる印象があります。

「どうせ頑張っても報われない」と考える人が増えたことが原因なのかもしれませんね。

ただ、私達が社会で暮らしている以上、仕事などで頑張らないといけない局面は絶対にあります。

そういうときに、「私という概念なんてそもそもないのだ」「この世は幻想だ」「なにもしないをするのだ」と考えたところで状況は何も変わりませんよね。どちらかというと、むしろ悪化することのほうが多いでしょう。

それよりは「来るなら来い!」というメンタリティで現実に立ち向かっていくほうが良いと思うのです。

そういうときにニーチェ哲学はものすごく効果的です。それは私自身の経験からも言えます。『ツァラトゥストラ』を読むとものすごく「立ち向かえる勇気」をもらえるのです。

もちろん、私自身は脱力系の思想が大好物です(笑)。でも、それだけに偏るのではなく、ニーチェ哲学的のような「頑張る系」「努力系」の思想も使えるようにしておくことは、自分の人生の幅を広げるうえで大事だと思うのです。

中には、ニーチェ哲学は「中二病」だという人もいるでしょう。でも、中二病の何が悪いのでしょうか?

そうやってシニカルに構えるのもいいですが、実際に『ツァラトゥストラ』を読めばニーチェの純粋さが分かると思います。

最期は精神を病んでしまったニーチェ。
彼自身が超人だったのかもしれませんね。

『ツァラトゥストラ』を読んだことがない方は、ぜひ読んでみてください。個人的には中公文庫版がおすすめです!

「ああ、これが生だったのか。よし、それならもう一度!」

ニーチェ『ツァラトゥストラ』


最後までお読みいただきありがとうございます。

Thank you for reading!



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