ニーチェ『ツァラトゥストラ』は言う。「君たちの勤勉は逃避だ」
ロッシーです。
前回の記事で、『ツァラトゥストラ』の書評を書きました。
普通、次は別の本を読むのですが、『Think Clearly』のアドヴァイスを参考にして、早速『ツァラトゥストラ』を再読しています。
なぜか?
『Think Clearly』では、「色々な本をバラバラと読むのではなく、良い本を厳選し、何度も読み返すこと」を推奨しているからです。
「これが『ツァラトゥストラ』か、ならばもう一度!」
というわけです(笑)。
さて、そんな風に再読中なのですが、ふと思いました。
「そういえば、経営者や起業家でニーチェが好きな人って多い気がする。」
あくまでも私の独断なので統計データがあるわけではありません。
ただ、一般的に経営者や起業家は、普通の人よりも努力家、野心家であり、チャレンジ精神にあふれていることが多いです。
そのような生き方、つまり仕事に人生を賭けるような生き方は、ニーチェ哲学と非常に相性が良いのかもしれません。
「この生を再び生きるとしても、私はこの生を選ぶ!と思えるような人生を歩みたい!」
「新しい価値創造をして世界を変えるようなサービスを生み出したい!」
そのように思って行動する人には『ツァラトゥストラ』ほどうってつけの書はないように見えます……が、本当にそうなのでしょうか?
『ツァラトゥストラ』で働くことについてどのように語っているか見てみましょう。
これを読むと、労働を頑張ることについて、肯定的ではないように見えます。
『ツァラトゥストラ』によれば、労働を頑張ることは、むしろ生からの逃避ではないか?というのです。
とすると、ニーチェ哲学を読んで
「よし、仕事頑張るぞ!!」
とやる気をブーストするのは、もしかすると『ツァラトゥストラ』的には違うのかもしれません。
「いやいや、ここで書かれているのはあくまでも労働だろ?俺がやっているのは仕事であって労働じゃない。つまり、労働は生からの逃避かもしれないが、俺のは仕事だから違う!」
という解釈も可能かもしれません。
でも、何が労働で何が仕事なのでしょうか?
いやいやさせられるのが労働で、自分からやりたくてするのが仕事なのでしょうか?
だとすると、本当に仕事をしている人ってどのくらいいるのでしょうか?おそらくあまりいないような気がします。
もちろん、きっちり区別できるわけではないにしても、私達の仕事のほとんどは労働だと捉えたほうが適切なように思いますがどうなのでしょう?
「まあ、別にニーチェ哲学を使って仕事のやる気が出るならそれでいいじゃないか。」
というプラグマティックな姿勢もアリだとは思います。
ただ、もしかするとそれは『ツァラトゥストラ』的には単なる逃避という見方もできるというのは留意しておいたほうが良いかもしれません。
『ツァラトゥストラ』を再読していて、ふとそんなことを思いました。
孤独に山ごもりするような主人公のツァラトゥストラですから、勤勉に働く畜群達は超人ではなく、むしろ末人側の位置づけだと捉えるほうが適切なように思います。
ということで、『ツァラトゥストラ』を読んで仕事のやる気を出すのは本書の趣旨からするとちょっと違うのかも、ということを書いてみました。知らんけど(笑)。
『ツァラトゥストラ』を読んでいると色々考えさせられます。やはり偉大な書ですね。
最後までお読みいただきありがとうございます。
Thank you for reading!
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