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「芸術神学」批判序説 ~ 新しい公共劇場の在り方を模索するための省察 ~(10)
〈アート〉について歴史学的アプローチをしようとすると、たいてい西洋ローカルな芸術史になってしまう。まるで〈アート〉は西洋にしかないとでも言っているような感じだが、実際のところ、半分は正しいと思う。
〈アート〉について狭義の意味で語る場合、ぼくは「芸術」と表記するが、この「芸術」は一神教的土壌においてこそ育ってきたものだ。この「芸術」にまつわる価値観を(西洋ローカルを超えて)世界的に普遍化するこ
「芸術神学」批判序説 ~ 新しい公共劇場の在り方を模索するための省察 ~(6)
マルクス・ガブリエル(1980-)は、「世界」は存在しないと言う。
この場合の「世界」とは、平たく言えば、単一の土俵だ。もし「世界」が存在するなら、1000年前の人も100年前の人も現在の人も、単一の土俵に乗っていることになる。あるいは、人間が絶滅したとしても、その単一の土俵は存続することになるだろう。このような単一の土俵においては、「真理」もまた一つである。あるいは「真理」とは、単一の土俵が
「芸術神学」批判序説 ~ 新しい公共劇場の在り方を模索するための省察 ~(5)
芸術作品の中には「真理」が内在している、という「信仰」の終焉、その経緯についてはいろいろな語り方ができるだろう。また、文学、音楽、美術などジャンルによっても趣が違ってこよう。
ここでは徒に冗長になるのを避け、ざっくりと俯瞰するに止めたい。
まずはロラン・バルト(1915-1980)の文学論を少しかじってみたい。
「芸術神学」において、作者は「天才」であり、「天才」であるがゆえに創造する芸
「芸術神学」批判序説 ~ 新しい公共劇場の在り方を模索するための省察 ~(2)
2.「芸術神学」、その礎石的「信仰」その1
~ 芸術は何の役にもたたないからこそ美しい? ~
さて、「芸術には絶対的価値がある」とする「信仰」を、略して「芸術の絶対価値論」と呼ぶことにしよう。この「絶対価値論」は、世間では「芸術のための芸術」あるいは「自律的芸術」とかいった名称で流布している。
この、「絶対価値論」のルーツはどこにあるだろう。
私見の範囲では、近代ドイツ思想(美学)まで
「芸術神学」批判序説 ~ 新しい公共劇場の在り方を模索するための省察 ~(1)
西田奇多郎
0. はじめに
本エッセイでは、新しい公共劇場の在り方(方向性)を模索するため、次の2点について純理論的な批判を行う。なお、ここでいう批判とはカント(1724-1804)的な意味での批判であり、それは「否定する」ことではなしに、先入観を疑うこと、無自覚に、あるいは無条件に受け入れてしまっている前提を改めて「吟味する」こと、を意味する。
(1) 芸術には絶
新型コロナウイルスと「芸術」の商品化、そして、あるいは・・・
西田奇多郎
ぼくは「まちの風景をドラマ化(異化)することで、日常の底に沈んでいる潜在的なものを可視化(社会課題として再提示)する」という、やや演劇的なプロジェクトを友人と一緒にしています。(※写真は、シェアハウスのような民家で上演したシェアハウスの物語=【借景演劇プロジェクト】と呼称しています。)
その第一回公演は「社会的分断」をテーマとするもので、民家を借り切り、2 月 23 日・24 日