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「芸術神学」批判序説 ~ 新しい公共劇場の在り方を模索するための省察 ~(6)

 マルクス・ガブリエル(1980-)は、「世界」は存在しないと言う。
 この場合の「世界」とは、平たく言えば、単一の土俵だ。もし「世界」が存在するなら、1000年前の人も100年前の人も現在の人も、単一の土俵に乗っていることになる。あるいは、人間が絶滅したとしても、その単一の土俵は存続することになるだろう。このような単一の土俵においては、「真理」もまた一つである。あるいは「真理」とは、単一の土俵が存在することを前提していると言ってよい。1000年前の人は太陽が地球の周りをまわっている、と思っていた。が、それは非「真理」である。土俵は一つだから。太陽の周りを地球がまわっている、のが正解である。
 ただし、太陽が地球の周りをまわっていた、とする言説が、1000年前において無意味であったわけではない。そのような考え方はそれなりの〈世界〉観をもっていたわけだ。しかも、現代においてもその〈世界〉観を通用させることが、できる。たとえば、そのような設定でファンタジー小説を書くことができ、読者はその〈世界〉を楽しむことができる。

 肝心なのは「世界」ではなく〈世界〉である。
 科学的〈世界〉においては、1000年前だろうが100年前だろうが現在だろうか、地球は太陽の周りをまわっているのであり、その逆を語ることは端的に言って非「真理」である。
 が、しかし、文芸的〈世界〉においては、べつに太陽が地球の周りをまわっていても構わない。それが許される。
 この〈世界〉を、マルクス・ガブリエルに忠実な用語で言い換えると、〈意味の場〉ということになる。新実在論を掲げるマルクス・ガブリエルは、一角獣すら存在する、と言ってのけ、周囲を驚かせたが、なんのことはない、たとえば文芸的〈意味の場〉において一角獣が存在することはべつに不都合なことではない。

 このような〈世界〉、〈意味の場〉は、潜在的には無数に存在し得ると言ってよいし、単一の〈世界〉が残る他のすべての〈世界〉を覆うことはできない。科学的〈世界〉がいわば何でもありの文芸的〈世界〉を支配することなどできはしない。たとえばSFは科学ではない。SFはSFである。「世界」が一つであり、それが科学的「世界」なら、SFは存在しない。しかしSFは存在する。ゆえに「世界」は存在しないのである。

 近代的科学至上主義が「世界」の存在を前提としているように、近代的「芸術神学」もまた「世界」の存在を前提としていた。そこでは、芸術とは(単一の)「世界(の真理)」を開示するものであった。
 しかしポスト「芸術神学」時代の「芸術」が根ざすものは「世界」ではなく〈世界〉である。しかも潜在的には無数であり得る〈世界〉である。

 このとき、作者と読者、いや、この後しばらくは「発信者」と「受信者」と呼ぶことにするが、その立ち位置はどこにあるのだろう。
 細かく厳密に言うと、それぞれが〈世界〉、〈意味の場〉をもっている、と言える。いや、もっている、というのは正確な表現ではない。〈意味の場〉の生成に参与している、といったところか。

 発信者は発信者の〈意味の場〉において作品を創造する。このとき、発信者にとっての作品の〈意味〉とは、この〈意味の場〉におけるものでしかない。
 受信者は受信者の〈意味の場〉において作品を受容する。このとき、受信者にとっての作品の〈意味〉とは、この〈意味の場〉におけるものでしかない。
 しかも〈意味の場〉は静止状態にあるものではなく、いつもすでに運動態である。また、〈意味の場〉は並列分散的であるというよりは、相互接続するし、折り重なりもする。そもそも発信者の〈意味の場〉と受信者の〈意味の場〉が無縁のものであり、壁があり、断絶があるなら、作品を介した発信者と受信者のコミュニケーションなど成立不能だろう。
 
 逆から言うと、そういうことがあるからこそ、発信者と受信者の間には「仲介者」が出現することになる。仲介者とは、一つの現れ方としては、批評家である。
 仲介者は仲介者で〈意味の場〉をもっている。もっと言うと、歴史的には、この仲介者が〈意味(の場)〉のカオスを鎮めてきた。〈意味の場〉がバラバラでは、そもそも社会的コミュニケーションが機能しない。ゆえに、(潜在的に拡散していく)〈意味〉を狭めて制度化していく必要があるのだ。
 たとえば美術とは、一つの制度である。美術という制度化された〈意味の場〉があるからこそ、そこに「共通言語」が生まれ、コミュニケーションが可能となり、価値評価などの方向性も定められ、共有されていく。

 ところが、仲介者である「貨幣」が経済システムの全域を覆って近代資本主義市場を生成していったように、仲介者の〈意味の場〉、制度化された美術が、おおよそ〈美的なるもの〉の全域を覆っていくことになる。仲介者の〈意味の場〉が、これは「美術である/美術ではない」と線引きをしていく。
 なるほどたしかに、仲介者の〈意味の場〉、制度化された美術のおかげで、私たちの美術にまつわるコミュニケーションが容易に成立しやすくなる。しかし同時に、潜在的可能性が、他でもありえた〈意味の場〉が、そこでは圧し潰されていく。
 このような制度化されていく〈意味の場〉に、すでにふれたマルセル・デュシャンのように反発する発信者は昔も今も無数にいる。彼/女らにとって、そもそも仲介者の〈意味の場〉など知ったことではない。しかしながら、デュシャンの便器が「美術ではない」と当初線引きされたにも関わらず、すぐに革命的(前衛的)な「美術である」として制度化されていったように、メタモルフォーゼする仲介者の〈意味の場〉は、反抗的なアンチ〈意味の場〉ですら新しい〈意味の場〉として貪欲に食っていく。

 ニクラス・ルーマンは、かつての芸術システムは「美しい/醜い」という二項対立的コードを軸に稼働していたが、それは今日「新しい/古い」に代わっている、と指摘している。制度化されていく〈意味の場〉への抵抗は、すべて「新しい」ものとして、〈意味の場〉の制度化に回収されていく。
 ある著名な演出家が、居酒屋でぼくにこう語った。「真実?そんなものでは評価されませんね。肝心なことは、新しいか、古いかです。ぼくらはつねに、誰もやったことがない新しいことをやり続けないと生き残れないのです。」

 ここで、公共劇場は昔も今も〈意味の場〉の制度化に加担してきた、ということに注意を払っておきたい。公共劇場は優れた芸術作品を上演する場、ではない。むしろ公共劇場で上演しているものが優れた芸術作品なのである。ルイ・アルチュセール(1918-1990)に「イデオロギー装置」という批判的概念があるが、公共劇場もまたイデオロギー装置の一つである。
 たとえばクラシック音楽が優れた芸術作品であるから公共劇場でコンサートを開催しているのではなく、公共劇場でクラシック音楽コンサートを開催するという実践の積み重ねが、クラシック音楽は優れた芸術作品である、というイデオロギーを再生産しているのである。もっと言うと、イデオロギーを拡大再生産していくのである。そのリアルが転倒し、優れた芸術作品を公共劇場では上演している、という神話が誕生する。そこにあるのはトートロジー。

 クラシック音楽にふれると心が豊かになる、それは、制度化された〈意味の場〉における一つの信仰である。
 公共劇場がもっとも恐れているものは、人々の心が貧しくなることではなく、長らく護ってきた〈意味の場〉の制度化が崩れることのほうにある。だから頑迷に保守的になる。この点については、また後ほどふれよう。

 さて、ぼくらにとって、芸術作品との「付き合い方」には3種あるだろう。
① 制度化されていく〈意味の場〉など知ったことかと、発信者は発信したいと思うものを発信する。(もちろん、売れたいのであれば、制度化されていく〈意味の場〉にノらないかぎり売れないのであるから、この場合、儲けは度外視することになるだろう。)
② 新しいものを見つけては、〈意味の場〉の制度化に回収し、品定めし、評価という名の陳列棚に並べていく。(批評とか、そうだろう。)
③ 上の①と同様、制度化されていく〈意味の場〉など知ったことかと、受信者は受信したいと思うものを受信し、ただ楽しむ。

 ちなみに公共劇場(芸術の殿堂)とは陳列棚であり、②にカテゴライズされるものであることは言うまでもない。実際、①にカテゴライズされるような尖がり過ぎたアーティストは公共劇場(行政)の手には負えない。社会的評価が定まっていないもの、キケンなもの、あるいは「アートではない」ものは、取り扱い不可、となる。
 
 さて、「芸術神学」とは、②のパターンのいわばVer.1.0である。しかし「神の死」と「作者の死」が「芸術神学」を葬ると、②はVer.2.0となり、それはただただ「新しいもの」を、アートのフロンティアを開拓(消費)していくだけの無限運動と化す。
 アート・ビジネス、なんて呼称があるが、フロンティアを際限なく消費していくことで歩を進めていく無限運動は、資本主義の運動とじつに親和的である。
 
 芸術とは何か?
 その答えは②の範疇にあり、芸術とは芸術と呼ばれる(評価される)もののことである。ルーマンの芸術システム論風に語るなら、芸術とは芸術システムに呑まれたもののことである。芸術システムの中で所を得たもののことである。そして芸術システムが止まらずに運動し続けるためには、つねに「新しいもの」を必要とする。前近代の「芸術」が「神の〈ことば〉」と共に静止状態にあったとするなら、近代を経て、現代の「芸術」は止まることを許されない。止まれば、死ぬ。じつに不毛だ。

 本エッセイは新しい公共劇場の在り方を模索するものであった。②が従来型の、芸術の殿堂型の公共劇場であるとするなら、それとは異なる方向性を、突破口を①および③に求めることができるだろう。
 ①および③が前提としているマインドとは何か?
 制度化された、あるいは制度化されていく〈意味の場〉など、知ったことか!
 というものである。
 かくして、芸術の殿堂を取り巻く〈意味の場〉は崩れ落ち、いよいよ、本題へ入っていくことになる。

《つづく》

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