RE:PUBLIC FROM ARTS

地域を越えて集まった劇場関係者のグループです。様々な書き手がそれぞれの地域から日々の出来事や考えたことを発信。互いをエンパワメントしながら、コロナ禍以後の芸術文化を通した公共性の再生に向け、各地域に合ったボトムアップ式の政策提案や、生活と共にある芸術事業ができればと考えています。

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「芸術にふれると心が豊かになる?」の系譜学?

 西田奇多郎 0. はじめに  世間では「芸術にふれると心が豊かになる」と言われています。主に芸術愛好家はそれを自明視し、そうでない方々は「本を読むと心が豊かになる」「おいしい食事は心を豊かにする」「天気の良い日に散歩すると心が豊かになる」等々のざっくりとした、あくまで一般論の一つ(一事例)として、それはそうだよね、とかいう程度に思っていることでしょう。  いずれにせよ「芸術にふれると心が豊かになる」ということは大衆的賛成を得ているわけですが、芸術愛好家とそうでない方々との

    • 新しい公共劇場の姿をもとめて     ~「芸術」から「芸道(GEIDO)」へのパラダイム・シフト(試論)~

       西田奇多郎 1.文化芸術事業 2.0「芸道」の理論的前提   西洋における「近代芸術」観が世俗化した「神学」であることはすでに述べました(『「芸術神学」批判序説』)。  西洋社会に「近代芸術」が根づくのはそれがお馴染みの「神学」であるからであり、東洋社会に根づきが悪いのは、西洋ローカルな「一神教的芸術神学」観を東洋社会が文化的に共有できないからです。「進んでる(正しい)/遅れてる(間違い)」とかいう問題ではないでしょう。  芸術愛好家の多くが、〈芸術〉の普遍性と、「近代

      • 「芸術神学」批判序説 ~ 新しい公共劇場の在り方を模索するための省察 ~(10)

         〈アート〉について歴史学的アプローチをしようとすると、たいてい西洋ローカルな芸術史になってしまう。まるで〈アート〉は西洋にしかないとでも言っているような感じだが、実際のところ、半分は正しいと思う。  〈アート〉について狭義の意味で語る場合、ぼくは「芸術」と表記するが、この「芸術」は一神教的土壌においてこそ育ってきたものだ。この「芸術」にまつわる価値観を(西洋ローカルを超えて)世界的に普遍化することはできない。  一方で、「想像界のアート」「象徴界のアート」「現実界のアート

        • 「芸術神学」批判序説 ~ 新しい公共劇場の在り方を模索するための省察 ~(9)

           〈アート〉とは何か?  この問いに答えるには様々なアプローチがあるが、ここでは2つ、心理学的アプローチと歴史学的アプローチを取り上げたい。  まず、心理学的アプローチであるが、これにも種々あると思うが、ここではジャック・ラカン(1901-1981)の精神分析理論を援用(濫用?)してみたい。  ラカンは人間の精神世界を理解するため、「想像界」「象徴界」「現実界」という3つの分析概念を用いた。  〈アート〉は他ならぬ人間の営みであるから、これを転用し、〈アート〉もまた「想像界

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        • 演劇
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        記事

          「芸術神学」批判序説 ~ 新しい公共劇場の在り方を模索するための省察 ~(8)

           あるいはファッションデザイナーの山本耀司(1943-)は、たしか記憶では、「オレの服は着られることによって完成する」といったことを語っており、示唆に富む。作品はいつもすでに「未完成品」。あらかじめ完成しているのではない。着られてはじめて完成する、というわけだ。  服を着る、という実践は、発信者の〈世界〉と受信者の〈世界〉を重ねること、交流、であろう。もちろん発信者は最初から着られることを想像して作品を創造する。発信者の〈意味の場〉は受信者の〈意味の場〉をすこぶる意識したも

          「芸術神学」批判序説 ~ 新しい公共劇場の在り方を模索するための省察 ~(8)

          「芸術神学」批判序説 ~ 新しい公共劇場の在り方を模索するための省察 ~(7)

           たとえばジル・ドゥルーズ(1925-95)は次のように語っている。   【一冊の本を読むには二通りの読み方がある。ひとつは本を箱のようなものと考え、箱だから内部があると思い込む立場。これだとどうしても本のシニフィエを追いもとめることになる。この場合、読み手がよこしまな心をもっていたり、堕落していたとしたら、シニフィアンの探求に乗り出すことになるだろう。そして次の本は最初の本に含まれた箱になったり、逆に最初の本を含む箱になったりするだろう。こうして注解がおこなわれ、解釈が加え

          「芸術神学」批判序説 ~ 新しい公共劇場の在り方を模索するための省察 ~(7)

          「芸術神学」批判序説 ~ 新しい公共劇場の在り方を模索するための省察 ~(6)

           マルクス・ガブリエル(1980-)は、「世界」は存在しないと言う。  この場合の「世界」とは、平たく言えば、単一の土俵だ。もし「世界」が存在するなら、1000年前の人も100年前の人も現在の人も、単一の土俵に乗っていることになる。あるいは、人間が絶滅したとしても、その単一の土俵は存続することになるだろう。このような単一の土俵においては、「真理」もまた一つである。あるいは「真理」とは、単一の土俵が存在することを前提していると言ってよい。1000年前の人は太陽が地球の周りをまわ

          「芸術神学」批判序説 ~ 新しい公共劇場の在り方を模索するための省察 ~(6)

          「芸術神学」批判序説 ~ 新しい公共劇場の在り方を模索するための省察 ~(5)

           芸術作品の中には「真理」が内在している、という「信仰」の終焉、その経緯についてはいろいろな語り方ができるだろう。また、文学、音楽、美術などジャンルによっても趣が違ってこよう。  ここでは徒に冗長になるのを避け、ざっくりと俯瞰するに止めたい。  まずはロラン・バルト(1915-1980)の文学論を少しかじってみたい。  「芸術神学」において、作者は「天才」であり、「天才」であるがゆえに創造する芸術作品に「真理」を懐胎させることができるのだった。が、しかし、バルトはこの作者の

          「芸術神学」批判序説 ~ 新しい公共劇場の在り方を模索するための省察 ~(5)

          オンでもオフでも。

          荒川 裕子  「新しい生活様式」は街の風景をガラッと変えた。 家から一歩出ればマスクをつける。人と会うときは密になってはいけない。レジに並ぶときはソーシャルディスタンスを守る。 「新しい生活様式」は、劇場にとっても悩みの種である。 わたしがいる、1100人キャパのホールは定員100人になった。ガラガラ状態が“よし”とされる。ガラガラの客席がスタンダードになる日が訪れるなんて思いもしなかった。 しばらくは、劇場の開店休業状態は続くであろう。  いま、仕事では、オンラインシ

          オンでもオフでも。

          「芸術神学」批判序説 ~ 新しい公共劇場の在り方を模索するための省察 ~(4)

          4.「芸術神学」の基本図式  なぜ人は芸術を通じて(こそ)「真理」に到達できるのだろう?  ここで、古典的な情報理論を援用すると、意外にも理解が進む。  (送り手)                  (受け手) [情報]⇒[コード化]送信・・・・・・受信[脱コード化]⇒[情報] (1)送り手は、相手に伝達したいメッセージをコード化(たとえば暗号化)し、送信する。 (2)受け手は、コード化された情報を脱コード化(解読)し、メッセージを受け取る。  非常に素朴な図式だが

          「芸術神学」批判序説 ~ 新しい公共劇場の在り方を模索するための省察 ~(4)

          「芸術神学」批判序説 ~ 新しい公共劇場の在り方を模索するための省察 ~(3)

          3.「芸術神学」、その礎石的「信仰」その2   ~ 芸術には「真理」注入されている? ~  芸術作品の中には「真理」なるものが入っているのだろうか? そう問う前に、そもそも「真理」とは何なのか?について考えてみる必要があるだろう。   「真理」、それは簡単に言うと、「神の〈ことば〉」だ。ちなみに、〈ことば〉を日本語とか英語とか、通俗的な意味での言語でイメージするのはよろしくない。たとえば、ピュタゴラス=ガリレオ路線でいうと、〈ことば〉とはむしろ〈数〉であり、「真理」を「神の

          「芸術神学」批判序説 ~ 新しい公共劇場の在り方を模索するための省察 ~(3)

          「芸術神学」批判序説 ~ 新しい公共劇場の在り方を模索するための省察 ~(2)

          2.「芸術神学」、その礎石的「信仰」その1   ~ 芸術は何の役にもたたないからこそ美しい? ~  さて、「芸術には絶対的価値がある」とする「信仰」を、略して「芸術の絶対価値論」と呼ぶことにしよう。この「絶対価値論」は、世間では「芸術のための芸術」あるいは「自律的芸術」とかいった名称で流布している。  この、「絶対価値論」のルーツはどこにあるだろう。  私見の範囲では、近代ドイツ思想(美学)まで遡れると思っているが、もちろん、近代ドイツ思想(美学)がある日突然パッと生まれた

          「芸術神学」批判序説 ~ 新しい公共劇場の在り方を模索するための省察 ~(2)

          「芸術神学」批判序説 ~ 新しい公共劇場の在り方を模索するための省察 ~(1)

                       西田奇多郎 0. はじめに  本エッセイでは、新しい公共劇場の在り方(方向性)を模索するため、次の2点について純理論的な批判を行う。なお、ここでいう批判とはカント(1724-1804)的な意味での批判であり、それは「否定する」ことではなしに、先入観を疑うこと、無自覚に、あるいは無条件に受け入れてしまっている前提を改めて「吟味する」こと、を意味する。 (1) 芸術には絶対的な価値があるというが、本当にそう言い切れるだろうか? (2) 芸術にふれると

          「芸術神学」批判序説 ~ 新しい公共劇場の在り方を模索するための省察 ~(1)

          新型コロナウイルスと「芸術」の商品化、そして、あるいは・・・

          西田奇多郎  ぼくは「まちの風景をドラマ化(異化)することで、日常の底に沈んでいる潜在的なものを可視化(社会課題として再提示)する」という、やや演劇的なプロジェクトを友人と一緒にしています。(※写真は、シェアハウスのような民家で上演したシェアハウスの物語=【借景演劇プロジェクト】と呼称しています。)  その第一回公演は「社会的分断」をテーマとするもので、民家を借り切り、2 月 23 日・24 日に開催しました。このときはまだ、新型コロナウイルスは遠い国(中国)の出来事、とい

          新型コロナウイルスと「芸術」の商品化、そして、あるいは・・・

          みえないちから

          荒川 裕子  朝のワイドショー番組でダイヤモンド・プリンセス号の乗客隔離のニュースが連日伝えられていた頃、感染症の専門家が「イベントなど人が多数集まるものは、1年後に延ばせるなら延ばした方がいいだろう」と言っていた。その時わたしは「3月前半までは厳しいかも。4月だったら大丈夫だろう」と漠然と思っていた。この先、どんな事態になっているか想像もできていなかったあの頃。  わたしは、福井市文化会館を拠点に、文化事業を展開しているNPOの職員で、アートマネージャーという仕事をして

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