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新型コロナウイルスと「芸術」の商品化、そして、あるいは・・・

西田奇多郎

 ぼくは「まちの風景をドラマ化(異化)することで、日常の底に沈んでいる潜在的なものを可視化(社会課題として再提示)する」という、やや演劇的なプロジェクトを友人と一緒にしています。(※写真は、シェアハウスのような民家で上演したシェアハウスの物語=【借景演劇プロジェクト】と呼称しています。)
 その第一回公演は「社会的分断」をテーマとするもので、民家を借り切り、2 月 23 日・24 日に開催しました。このときはまだ、新型コロナウイルスは遠い国(中国)の出来事、というと言い過ぎですが、あまり深刻には受け止めていませんでした。
 ところが、ちょうど公演を終えて数日が過ぎた頃から、事態が急転していきます・・・・・・

 まず、お上のお達しにより(というのも、ぼくが所属する外郭団体は市役所が所有する文化会館を請負管理しておりますので)、3 月度の文化プログラム(公演事業など)が全中止となりました。それも 3 月だけのことだろう、と思っていたら、4 月も中止(または延期)するよう方針が定まり、続いて施設自体が一部利用停止(実質的には休館)となりました。  
 さらには、止まらぬ新型コロナウイルス感染拡大を見越し、5月現在、 6 月も 7 月も、8 月も事業が延期(または中止)となる見込みです。

 さて、ちょうど春の人事異動がありまして、公演事業担当スタッフが減り、かつ、その半数が入れ替えとなったことから、残存したぼくが(不幸にも?)最前線でアーティストおよび企画会社とキャンセル料などの(心苦しい)交渉をすることになりました。
 で、事件(?)が発生・・・・・・
 「市民が楽しみにしていた公演だったのですが、誠に残念なことに・・・」とかいう日本人特有の前口上も言い終わらせてくれずに、「そんな話はどーでもいいから、キャンセル料の話をしたい。いくらくれるの?」と頭ごなしに言われました。
 いつもお世話になっている企画会社ですと、互いに相手の立場を配慮し、わりと穏やかに話し合いが進んでいくのですが、一見さん的な個人事業主、いわゆるフリーランスさんの場合、露骨にカネの話にしかならないケースが若干あり(もちろん全部じゃないですよ)、ぶっちゃけウンザリしました。とはいえ一方では、それだけ切羽詰まっている、ということでしょう。

 さて、「民主主義は最低だが、それ以外の政治体制はもっと最低」とは、よく言われることです。同様にして、「資本主義は最低だが、それ以外の経済体制はもっと最低」とも言えます。
 しかしながら「最低」であることには違いないので、この(いささか浮世嫌いな)ぼくは、できるかぎりカネの世界からは遠ざかっていたい・・・ので、現職である、いわゆる「文化と芸術」に携わる仕事というのは嫌いじゃなかった・・・のですが、そういった考えは幻想だったかな・・・・・・?
 芸術(および芸術家)は資本主義(カネ)とは無縁の存在であってほしい、とかいう大変バカげた時代錯誤的期待(あるいは60年代的、反体制的マインド?)が、ホントにバカげており非現実的妄想だとは重々承知していながらも、これはもう半ば「潜在意識」でしょうか、ぼくの中には消えずにあります。
 だから今回、目先の残務(キャンル料の交渉)をいったん脇へ置き、ざっと世間を見わたすと、公演できないから金銭的補償を!といった言説のオンパレードしか視野に入らず、ガッカリ、拍子抜けしました。文化を殺すな!とかいうスローガンが、むしろ金銭的補償を求めるある種の「後ろめたさ」を正当化するだけのロジックにすら見えてしまいます。

 平常時には「文化を殺すな!公演したって、芸術っつーのは、やればやるほど赤字になるんだから、国がキッチリ補償(助成)しろよな!」と言い・・・
 異常時には「文化を殺すな!公演できないせいで赤字が増えていくんだ、キッチリ補償(助成)しろよな!」と言う・・・
 どっちなんだ!
 どっちにせよカネか?というツッコミはさておき、
 しかしまぁ、いずれにせよ〈カネがないと芸術できない〉というのは何だろう・・・・・
 
 また「文化を殺すな!」署名運動というか、芸術関係者が連帯して国へ補償を求める動きが大変賑やかですが、そのロジックはビミョーにヘンです。
(1) 芸術には問答無用の絶対的な価値がある。
(2) オレたちがやってんのは、その芸術だ!
(3) ゆえに、国家はオレたちを当然のごとく救済しなければならない。
 とかいう類の(うぬぼれた)三段論法がそこに潜んでいると感じます。
 ちなみに、ここでいう「芸術」を「スポーツ」に変換してみましょう。
(1) スポーツには問答無用の絶対的な価値がある。
(2) オレたちがやってんのは、そのスポーツだ!
(3) ゆえに、国家はオレたちを当然のごとく救済しなければならない。
 芸術に価値があるとするなら、同様にしてスポーツにも同じ価値があると思いますが、スポーツ関係者はこのようなロジックを用いての補償要求は現状していません。おそらくそれは、スポーツの価値というのは「スポーツをやっている選手たちが決めることではなく、人々が決めるもの」「スポーツの価値は人々に支えられてのもの」という感覚が一般に浸透しているからでしょう。平たく言えば、「ファンあってのもの」ということ。
 しかるに芸術の場合は異なります。芸術の価値は人々が決めることではなく、それ自体において、絶対的かつ客観的な価値があると信じられているからです(主に芸術関係者の間において)。
 これを【芸術のための芸術】【芸術の自律性】【純粋芸術】などと世間では呼称しますが、ここではさしあたり「芸術の絶対価値論」と記しておきましょう。
 芸術には絶対的な価値があるのだから、問答無用、無条件で、国家は芸術を支援すべきだ!とかいうロジック・・・・・・
 この「芸術の絶対価値論」が、いかに間違った幻想であるかについては改めて別稿を用意したいと思いますが、この、ある種の威丈高な居直りが、炎上した野田秀樹さんの発言や、それを擁護する平田オリザさんの発言にも見え隠れしていました。ゆえに、炎上したわけですが・・・・・・

 芸術関係者の自作自演による署名運動ではなく、一般市民が先頭に立ち、声をあげて「私たちの生活にとって芸術は欠けてはならないものです」と訴え出たのだとしたら、よかったなぁ・・・・・・それならカッコいいのに・・・・・・
 今回、そのような「市民の声」があがらなかった理由は、普段から芸術関係者が市民のほうを向いて仕事をしていないから、でしょう。なぜなら、往々にして「芸術のための芸術」しか、やってこなかったからです。もちろん(「芸術による社会包摂」運動など)一部の例外はありますが。
 芸術は相変わらず市民を置き去りにしたままなのであって、西洋は芸術に理解があるのに、日本は・・・・・・とかいう(聞き飽きた)問題が本丸ではありません。一部西洋諸国にとって、芸術支援というのはナショナリズム(国威高揚・国家的アイデンティティ)の中核であり、べつに理解が「ある/ない」とかいうのとは次元の異なる話でしょう。これについても、改めて別稿を用意する必要があるでしょう。文化帝国主義の問題ともからみます。
 もっとも、国家的補償に頼らず、民間のレベルで、芸術関係者(および愛好家)によるクラウドファンディングなどを活用した相互扶助的な救済運動が出てきたことは大変素晴らしいことだと思います。その輪がどれくらい広がるかについては、それこそ芸術がどれくらい民意を得ているかに依存するでしょう。もっと言うと、国家が芸術のお世話をすればするほど、むしろ芸術が(お上ばかりを見てしまい)市民社会に根づかない、という逆説は確実にあるものと考えます。

 さて、
 「芸術」は絶対的に(無条件的に)価値があるものだ!
 とかいう「信仰」を、ぼくは【芸術神学】と呼称しています。
 これはもうガチで「神学」であり、芸術愛好家たちを、ぼくは「信者」の一種だと見ています。
 ちなみに、国内にはたくさんの「教会」があります。もちろん、芸術団体や劇場のことを指します。
 「教会」がやっていることは、日々「信者」を増やすこと。
 決めセリフは、毎週日曜日、私たちの「教会」に来てくださいね。「芸術(教え)」にふれると、あなたの心が豊かになりますよ~、だ。
 付き合ってられない・・・・・・

 ニーチェの御託宣を再掲するまでもなく、2020年現在、とっくに「神は死んでいる!」
 ニーチェ「神の死」の「神」は、芸術、厳密に言うなら「近代芸術」にも置き換え可能であり、いっそのこと「近代芸術は死んだ!」ともついでに言ってくれてたなら、芸術哲学のUPDATEはもっと迅速に進んでいただろうに・・・・・・というのは、余談。

 芸術愛好家は、「国も一般大衆も芸術を理解しない(からケシカラン!)」とボヤキますが、ぼくから言わせれば、ただ単に、日本人は大衆的に「無神論者」が多いからに過ぎません。
 欧米と日本との違いは、ただ単に、「有神論か/無神論か」という、大衆的支持率の違いに過ぎない、ガチで、マジで、たとえ、ですがね・・・・・・
 どんなに頑張って布教しようと、日本社会が「有神論」へ進化(?)するわけが、ない!というリアルを、「教会」および「信者」たちは真面目に受け止めるべきでしょう。

 ここからようやく本題?に入ります・・・・・・
 
 かのカール・マルクス(1818-1883)に、資本(の運動)による(社会的なものの)「実質的包摂」という分析概念があります。ま、要するに、資本主義では、あらゆるものが「商品」化していく、ということです(※ただし、この場合の「商品」というのは、日常語とは少し毛並みが違いますので注意!とはいえ、冗長になるので言及を避けます。ちなみに、イマニュエル・ウォーラーステイン(1930-2019)も「万物の商品化」を資本主義の根本的特徴だと見ていましたね。)

 まずは、「芸術」はとっくの昔に「(資本に、カネの運動に)実質的包摂」されており、「商品」化しているという現実を、夢から醒めて、ぼくはもう真摯に受け止めることにします。
 それが今回、よくわかりましたし・・・・・・
 〈カネがないと芸術できない〉
 「芸術」は「商品」化すると、より良く売れるようにと(それは有名になることや、業界で権威をもつこともでもありますが)、制作マーケティングされていきます。
 「芸術」で、表現すること、と、食っていくこと、が、目的と手段が、転倒していきます。誰もが食っていくこと、すなわち成功したい!と考えるようになります。

 「商品」を売って食っていく、という「後ろめたさ」を「芸術」(今やそんなものがあるとして)のオーラで包み覆い隠し(オレはビジネスマンじゃねぇぞ!芸術家だ!)、「商品」が売れずに食えないから補償してくれ、とかいうごく普通の一般的請願(べつに「飲食を殺すな!」「観光を殺すな!」と同じなのに・・・)を、「文化殺すな!」とかいう「芸術の絶対価値論」に基づく「上」 から目線の要求に転じ、さもそれが当然なふうな顔をするがため、大衆的炎上を招く・・・・・・

 あぁヤだ、ヤだ・・・・・・カネか? 結局カネ?

 ・・・・・・というわけで、なんだかなぁと思う中、ぼくは今(じつは持病で休養中の)仲間が復活次第、冒頭に掲げたプロジェクトを再起動し、この際だ!資本主義の「外」で演劇すること、というと言い過ぎですが(というのも、ぼくらがやっていることは「演劇」と呼べるものではないし、資本主義に今さら「外」があるのかどうかもわからないので)、とりあえずはまぁカネの運動に「実質的包摂」されない〈芸術〉というものの在り方を模索してみようか、と、ささやかな(ささやかすぎる)野心に燃えています。

 この場合、意外にも? プロよりアマチュアのほうにアドバンテージがあるでしょう。
 21 世紀、じつは、むしろ、(「芸術商品」で食っていない)アマチュアこそ〈芸術〉のメシアになるのでは? 「実質的包摂」から〈芸術〉を救済し得る存在になるのでは?

 とまぁ、そんなことを公言していたら、べつの友人から宮沢賢治をススメられました。せっかくなので「農民芸術論」を読んでみようかしら、と思っているところです。
 
 ちなみに、前回実践した公演は、おおむね【0円演劇】でした。
 たとえば【借景0円演劇】の道を究めてみるのも悪くないでしょう。
 演劇はカネがかかる、と、みなさん言います。
 なんでカネがないと演劇できないのでしょう?
 おかしくないか?
 とはいえ、生活がかかっているプロに、そんなことを言っても無意味でしょう。
 だからこそ、〈EXIT〉、カネの運動が閉ざした扉をこじ開けてやろうとする鍵は、むしろアマチュアたちの手中にあるのではないでしょうか。

 そんな事態であるから、万国の!
 とは言わないまでの、全国の!
 とも言わないまでの、まずは向こう三軒両隣のアマチュアたちよ!
 団結せよ!(?)

 【芸術神学】と【教会制度】を解体し、一人一人の手に〈芸術〉を取り戻す運動、いわば宗教改革の実践者は、一人一人のアマチュアでしょう。
 繰り返しますよ、芸術における「宗教改革」を開始しましょう!
 〈芸術〉という名の聖書は、権威的司祭の独占物ではない。
 〈芸術〉に、ヒエラルキーはない。
 司祭だけが、〈芸術〉について、うまく語れるわけではない。
 プロはアマチュアに優越しない。たしかに、商品としての「芸術」、そのクオリティーにおいては、プロはアマチュアに優越するでしょう。ただし、それは(「芸術」だけではなく)すべての業種(商品)について言えること。母ちゃんの料理より一流シェフの味が優越するのは当たり前でしょう。しかし一方では、「おふくろの味」を一流シェフは超えられない。同様にして、〈芸術〉においては、アマチュアはときにプロを凌駕するでしょう。というのも、「おふくろの味」は商品ではないからです。人は商品には感動しません。シラケるだけです。もし商品に感動することがあるとするなら、それは商品から垣間見えてくる、そこに内在(潜在)している「商品ではない部分」に感動しているのだと思います。
 さて、みなさんは、教会(および司祭)に御布施することで(芸術を買うことで)、精神性が高まったと思う(錯覚する)のをやめましょう! 免罪符(贖宥状)に効果はありません。

 あぁもう難しい言葉は使うまい。平たく、たった一言、【生活芸術】と呼ぶことにします。
 ぼくたちと一緒に「宗教改革(生活芸術)」を闘いたいと思われるアマチュア社会運動家がいたらば、ぜひとも一報いただきたいと思います。
 カネに喰われることなく、芸術してやりましょう~!


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