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「芸術神学」批判序説 ~ 新しい公共劇場の在り方を模索するための省察 ~(5)

 芸術作品の中には「真理」が内在している、という「信仰」の終焉、その経緯についてはいろいろな語り方ができるだろう。また、文学、音楽、美術などジャンルによっても趣が違ってこよう。
 ここでは徒に冗長になるのを避け、ざっくりと俯瞰するに止めたい。

 まずはロラン・バルト(1915-1980)の文学論を少しかじってみたい。
 「芸術神学」において、作者は「天才」であり、「天才」であるがゆえに創造する芸術作品に「真理」を懐胎させることができるのだった。が、しかし、バルトはこの作者の「死」を宣告する。「制度としての作者は死んだ」と。[『テクストの楽しみ』鈴村和成訳、みすず書房、2017:P55]

 「作者の死」はニーチェ「神の死」を彷彿とさせる。なるほど作者は以前と変わらずに作品を創造するだろう。そこに作者なりの「真理」を込めてもいよう。ただし、その「真理」の後見人である「神」はもう死んでいる。作者は「真理」を伝道する預言者ではない。

【〈テクスト〉が意味するのは〈織物〉である。とはいえ、これまではいつも織物を、ある製品、完成したヴェール、その背後に、多かれ少なかれ隠された意味(真理)がひかえているものと解してきたが、私たちはこれから織物というとき、たえざる絡みあいをつうじて、テクストがかたちづくられ、錬成されていく、生成の思想にウエイトをおこうと思う。】[バルト前掲書、P129]

 脱神話化された芸術作品(文学作品)を、バルトはテクストと呼称するが、ここでは普通に作品と記し続けることにする。
 作品はもはや「神の〈ことば〉」を体現するものではない。「天才」によって神降ろしされた「真理」が宿るものでもない。

 神なき時代の作品は、
  神(真理)
   ↓
  芸術作品
 と、垂直的関係にある創造物ではなく、
 芸術作品⇒芸術作品⇒芸術作品⇒・・・・・・
 と、水平的に作品から作品へと繋がっていく「織物」である。そこには超地上的なものはなにもない。

 もっと言うと、作品とは「真理」が結晶化したものではなく、いわば〈はたらき〉であり、終わらぬ運動である。
 作者は「無」から「真理」を生み出す「天才」ではなく、過去の作品の影響下にある。いや、影響関係はそれだけではない。制度化されたジャンルの技法(作法)、文化、伝統、自身の経験、人生、その他じつに多彩な影響下で作品を創造する。こういった多様な〈はたらき〉と共に、意識的にせよ無意識的にせよ、表現欲求に憑かれた作者は、まさに表現したいものを作品として着地させていく。ただしこの作品は、無限とも言える〈はたらき〉と繋がるものであるがゆえ、作者ですら作品の全体像を語り尽くすことができない。言い換えると、作品というものの「境界線」は無限に開かれており、作者の手によって創造されながらも作者の手に負えるものではなく、ときに作品は、作者が意図した以上のことを語ってしまう。つまり作者ではなく、あるいは作者を通して〈はたらき〉が語りはじめることがある。

 その語りを聴くのは誰か。読者である。しかしこの読者もまた多様な〈はたらき〉に内在しており、その渦中において作品と出会う。〈はたらき〉に内在する読者もまた〈はたらき〉の全体性を見通せないのであるから、作者と同様、読者にとっても作品は手に負えないものとなる。作品はいわば「無限の泉」であり、いかなる読者も「泉」を汲み尽くすことはできない。

 つまり〈はたらき〉と共にある作品は無数の、無限の「声」をもっている。いや、もっている、という言い方は正確ではない。〈はたらき〉とは静止することのない運動であり、〈はたらき〉と共にある作品は際限なく「声」を生んでいく。そしてもちろんその「声」は、〈はたらき〉の渦中において、作者が、作品が、読者が、紡ぎだしていくものである。このとき、関係性は水平的であり、作者はピラミッドの頂点に立つ存在ではない。
 また、作品は「真理」などという単一の「声」をもっているわけでもない。

【テクストの舞台においては、客席とのあいだに欄干はない。テクストの背後にだれか能動的な人物(作家)がいるわけではないし、テクストの前にだれか受け身の人物(読者)がいるわけでもない。】[バルト前掲書、P32]

 作者が舞台作品をつくり、上演し、客席にいる鑑賞者がそれを一方的に受容する、といった「芸術神学」のフォーマットはここで失効する。そこにあるのは舞台も客席もない多彩な相貌をみせる〈はたらき〉のみであり、その渦中において、作品の「意味」が生成されていく。
 さて、ここで「真理」に代えて「意味」と表記したが、この場合の「意味」とは何だろう。
 これには説明が要る。

《つづく》


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