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「芸術にふれると心が豊かになる?」の系譜学?

 西田奇多郎

0. はじめに
 世間では「芸術にふれると心が豊かになる」と言われています。主に芸術愛好家はそれを自明視し、そうでない方々は「本を読むと心が豊かになる」「おいしい食事は心を豊かにする」「天気の良い日に散歩すると心が豊かになる」等々のざっくりとした、あくまで一般論の一つ(一事例)として、それはそうだよね、とかいう程度に思っていることでしょう。
 いずれにせよ「芸術にふれると心が豊かになる」ということは大衆的賛成を得ているわけですが、芸術愛好家とそうでない方々との間には前述のとおり幾らかの温度差はあるでしょう。愛好家のみなさんは「芸術だけが!」「芸術こそが!」「芸術がもっとも!」心を豊かにする、といった感じで、芸術を特権的に扱う傾向がありますが、そうでない方々というのは、同じ心を豊かにするという点においては、真心のこもった手料理も、あるいは山登りやハイキングといった趣味も同じであり、べつに芸術との違いはないでしょう。
 こうした、芸術だけを特権視する愛好家のみなさんと、そうでない方々との価値評価のズレは、あいちトリエンナーレ炎上やコロナ禍における平田オリザさんの言動の炎上そのほか様々な軋轢として具現していますが、長くなりますので、それについてここでふれることは止めておきます。
 さて、このショート・エッセイでは、そもそも「芸術にふれると心が豊かになる」という価値観がどこからでてきたのか、について、ざっくり考えてみたいと思います。奈良時代や平安時代の人たちがそのように考えていたとは到底思えませんので、こういった価値観は、あるときどこかで誕生したわけです。また、一方では、芸術愛好家のみなさんは、「芸術にふれると心が豊かになる」というマインドが、まったく日本に根づかない、と嘆いておられますが、本当に根づいていないのか、あるいは、根づかないとするなら何故なのか、についてもあわせて考えてみることにしましょう。
 といっても、「芸術と心の豊かさ」にまるわる言説史を、網羅的に探究する力量などぼくにはありません。ので、まずは「芸術にふれると心が豊かになる」というマインドが根づいているとされる西洋社会に限定し、なぜそのようなマインドが根づいてしまったのか、について、かなり大雑把に整理してみたいと思います。

1.「 神学」と「哲学・科学・芸術」の3点セットについて
 西洋の価値観は、圧倒的にキリスト教の影響下にあります。「心の豊かさ」とは何でしょう? 「豊かに生きる」ということはどういうことでしょう? 簡単なことです。〈神の意〉に沿って生きることです。
 神によって造られた人間は、デタラメに生きればよいというものではなく、神がそのようにあれ、と考えている、その意に沿って生きるべきなのです。それが善であり、そういう生き方をすることが幸福につながるのです。神に祝福された生き方です。また、それは個々人についても同じで、あなたは何のために生きているのか、その答えを知っているのは神です。〈神の意〉を知り、いわば定められた生き方をすべきなのです。そうすれば、この世を幸福に生きられます。ちなみに、マックス・ウェーバー(1864-1920)『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を一読すればわかるとおり、こういった考えの延長線上に、経済的成功(世俗的成功)というのは神に祝福されたる証だ、などといった考えも芽生えてきます。だから、キリスト教的成功者は率先して寄付をするわけです。
 それはさておき、〈神の意〉に沿って人間らしく生きること、あるいは、自分らしく生きるためには、当然、〈神の意〉を知らねばなりません。では、どうしたらいいのか? 教会へ通うことです。あるいは、プロテスタントなら聖書にふれることです。教会へ通うも聖書にふれるも、〈神のことば〉にふれること、という意味では同じであり、〈神のことば〉とは、平たく言ってしまえば〈真実〉のことです。
 つまり、人間は、あるいはこの自分は、〈真実〉にふれることで心が豊かになり、(神に祝福されたる)幸福な人生を歩むことができるのです。
 ゆえに、人間にとって長らく最高の学問(知)は神学でした。
 ところが、神学のほかにも〈真実〉に迫れるとする学問(知)が誕生していきます。哲学、科学、芸術がそれです。
 まずは哲学。哲学は神学の悪く言えば下僕、良く言えば相棒として勃興していきます。たとえば、デカルト(1596-1650)は「神の存在証明」を手がけましたし、ヘーゲル(1770-1831)にとって人間の歴史とは〈神の意〉が具体的に実現していく過程です。このように哲学は神学的世界観をロジックで補完する役割を担ってきました。神学は信仰として〈真実〉を語りますが、哲学はロジックで、理性を用いて〈真実〉を語るというわけです。
 ここには、(1)人間は神によって造られた。(2)神は人間に理性(知性)を与えた。(3)ゆえに、理性(知性)を正しく用いれば、神が握っている〈真実〉にアプローチすることができる、とかいう神学-哲学的三段論法がベースとして据えられています。
 つぎに、科学。科学が前提としている神学-科学的三段論法は以下のようなものです。(1)この世界を造ったのは神である。(2)ゆえに、この世界はデタラメではなく、秩序がある。(3)その秩序を、人間は理性(知性)によって知ることができる。
 つまり科学とは、神が世界に宿した秩序を知ろうとする試みです。どうやって知るのか? 神は数学という言語で世界を造った、等と言われたりするように、科学者は、いわば万物を説明し尽くす〈神の数式〉を求めています。〈神の数式〉とは、世界創造を果たした〈神のことば〉です。科学もまた、数式によって〈真実〉を語るのですね。人々は科学を通して〈真実〉にふれることにより、豊かになり、幸福に暮らせるようになるのです。
 ちなみに、科学が西洋でしか、西洋でこそ誕生したという理由が、これでわかるでしょう。
 さいごに、芸術です。じつは芸術もまた〈真実〉を語るものなのです。芸術的創造は、それこそ〈神のことば〉を天啓によって知る預言者のごとく、作家たちの天才的インスピレーションによって成される、等と言われたりします。芸術的創造の担い手は天才です。天才が創造する芸術作品には〈真実〉が宿ります。この〈真実〉にふれることで、芸術というのは、人々に豊かさをもたらすのですね。
 以上、〈真実〉にふれることが豊かに生きることである、ということ、また、その〈真実〉は、いわば神学を頂点とする、哲学・科学・芸術の三角錐と共にあることを、ざっくりと説明させていただきました。
 ちなみに、「神の死」ではありませんが、神学のゆるやかな権威失墜により、哲学・科学・芸術がそれぞれ自立していくのが近現代という時代の流れではあります。

2. 芸術への理解において、日本は本当にダメな国なのか?
 芸術愛好家の方々は、芸術に理解のない日本はダメな国だ、と繰り返し語ります。本当に日本はダメな国なのでしょうか? ぼくに言わせれば、むしろ芸術愛好家のみなさんの方がダメな人たちに思えます。
 そもそも西洋と東洋とでは、思想的風土が違うのです。
 芸術を特権視する思想は、前述したとおり、一神教的(キリスト教的)価値観の産物であり、言い換えれば、芸術とは世俗化した神学に他なりません。
 また、〈真実〉にふれることこそ、人間らしく、豊かに生きることだ、とする価値観も、西洋思想の文脈に根ざしたものです。(ちなみに、もはやそんな〈真実〉などありはしない、というのが現代という時代です。詳細は拙稿『「芸術神学」批判序説』にて。)
 ひるがえって、日本の場合はどうか? すでに拙稿『新しい公共劇場の姿をもとめて ~「芸術」から「芸道(GEIDO)」へのパラダイム・シフト(試論)~』で言及しましたが、ざっくりもう一度話していきたいと思います。
 日本の場合(と一般化できるかどうかは問題ですが)、〈真実〉にふれることが豊かさの源だとは考えていないでしょう。そもそも、西洋的〈真実〉とは、神が握るものであり、超地上的なものであり、平たく言えば、人間の世界を超えた客観的かつ絶対的なものです。対して、日本の場合、むしろ〈真実〉とは自己の内奥にあるものでしょう。己事究明などと言われたりもしますが、徹底して己を知ること、それが大切なのです。たとえば禅では、〈真実〉を外に求めるな!己の内に求めよ!というのが教義の基本です。道元(1200-1253)は『正法眼蔵』において、仏法を求めるということは己を知るということだ、と明言しています。
 つまり日本思想の文脈では、自己を深く知るということが、すなわち豊かに生きるということなのです。これを「道」と呼称します。「術」ではなく、「道」です。
 たとえば剣道と剣術とでは、その意味合いが異なります。剣術とは人を斬り殺すテクニックであり、技術、「術」です。剣道とは、技術を求めているものではなく、「道」を究めんとするものです。カッコいい?表現をするなら、敵を斬るのが剣術であり、己の迷いを絶つのが剣道です。剣道とは、それを通じて己を知ろうとするものです。
 繰り返しになりますが、己を深く知ろうとするのが「道」であり、「道」に到達することがすなわち豊かに生きることなのです。そのような意味合いにおいて、西洋芸術はやはり「術」でしかなく、「道」ではないのです。
 さて、「道」について、もう少しつっこんで見ていきましょう。
 「道」とは、己を知ることだ、と言いましたが、厳密に言うと違います。むしろ、己などないこと、ということに気づくことが「道」です。道元もまた、己を知るということは、己など無いことに気づくことだ、と言っています。平たく言えば、我(が)を捨てる、ということ。自我に固執しないということ、です。このような考え方は、東洋では、釈尊の無我(非我)の思想から連綿と続いています。
 ざっくり超訳してしまうなら、この私は生きているのではなく、生かされているということ、様々な〈はたらき〉によって生かされているということ、また、わが身一つで生きているというのは思い上がりであり、他者たちがいてはじめて生きられるのであり、他者たちと共に生きているということ、さらには、自然があってこそ、自然と共に生きているということ、に気づくことが大切だ、ということでしょう。
 要するに、共生の思想、です。
 西洋思想では、自然というのは端的に言ってモノであり、人間に対立するものです。
 日本では、「草木国土悉皆成仏」なんて言葉もありますが、自然は生きているのであり、モノではありませんし、人間の反対側に自然があるのではなく、人間は自然の内側で、自然と共に生きているのです。(専門用語を使ってしまうと、梵我一如、ということになるのですが、長くなりますので、それはまぁ、よいでしょう・・・) 
 それに気づくこと、それが「道」を知ることであり、「道」を知ることこそ、豊かに生きることなのです。それが、日本古来の感性です。〈真実〉を知り、〈神の意〉にそって生きるのが豊かさなのではなく、「道」を知り、「道」にそって生きることが豊かさなのです。具体的に言うと、自我への固執を捨て、他者たちと共に、自然と共に生きる在り方ですね。
 少なくとも、ぼくの目には、西洋的芸術観の方が「道」という東洋的な思想に比して、ぶっちゃけ劣っているように思えてしまいます。それは単にぼくがキリスト教の信者ではなく、ごく普通の日本人だからでしょうが。
 芸術愛好家のみなさんは、あまりに西洋にかぶれすぎており、物事を冷静に見ておらず、歴史的あるいは思想的な文脈を無視し、つねに西洋が正しいという西洋文化中心主義に陥っているように思えます。あるいは、ただの西洋芸術オタクにも見えてしまいます。
 芸術愛好家は「日本はダメだ!」の一点張りですが、どの観点から「日本がダメ」になってしまっているのか、大いに疑問です。だから、ダメなのはむしろ芸術愛好家たちのほうじゃないの?と言っているのです。

3.「芸術」から「芸道」へ
 とはいえ、ぼくとしては、西洋芸術を一刀両断して否定するのではなく、西洋の良さと東洋の良さをミックスできないものかな、と考えています。
 かつて哲学者の西田幾多郎(1870-1945)が西洋哲学と東洋哲学を橋渡ししようとしていたように、西洋芸術と東洋の「道」をハイブリッドにできないものでしょうか。
 それを考えてみたいものです。
 さしあたり西洋芸術から「芸」の字を、東洋(日本)からは「道」の字を借りまして、このような試みを「芸道」と命名したいと思っています。
 詳細は、別稿『新しい公共劇場の姿をもとめて ~「芸術」から「芸道(GEIDO)」へのパラダイム・シフト(試論)~』あるいは『「芸術神学」批判序説』に譲りたいと思います。
 猫だと思っている犬がいたらヘンですが、同様にして、西洋人だと思っている日本人もヘンです。まずは足元から照らしてみるべきでしょう。
 それを怠っているから、いつまでたっても「芸術」が日本に根づかないのです。
 いや、そもそも根づくわけがないでしょう。百年経っても根づくわけがない。
 もし根づくものがあるとするなら、それは「芸道」を除いて他にはありますまい。
 「芸術」は日本史(風土)を排除しますが、
 「芸道」は日本史(風土)を包摂します。

(了)


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