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ようこそネクロポリスへ
~メタバースという疑似彼岸~

(一)

 いまみんなが見ているテレビやパソコンの画面は、古代から楽しまれてきた芝居や踊りの舞台が、家というプライベート空間にコンパクトな形で入り込んだものだと言っていい。昔の人はわざわざ劇場にまで足を運んで木戸銭を払い、舞台上の役者たちの芸を観て楽しんでいたわけだ。だからテレビが最初に家庭に入ったとき、一段高い床の間に置かれ、垂れ幕を上げて舞台を見上げるような格好で楽しんだ。

 テレビも舞台も、演ずる者と観る者は明確に区別されていて、観客は座布団や椅子に座ったまま、目と耳を通して舞台上の光景を入力し、日常とは異なる異世界を堪能した。しかしこの場合、観客の五感は「視」と「聴」だけ働き、「嗅」「味」「触」は楽しむことができなかった。だから歌舞伎や相撲の花道のように、わざわざ演者と客の距離感を近付け、吐息や汗、臭いを振り掛ける仕組みもあったわけだ。いまは禁止になっているが、昔は勝力士が花道を退場するときに、客は汗で濡れた背中をポンポン叩いて、その飛沫が降りかかったものだ。そのとき客は、きっと「触」「嗅」をプラスして楽しんだに違いない。演劇だって、演者が舞台から降りて客席に紛れ込むことはしょっちゅうだし、ロックコンサートの熱狂を見ても分かるように、客はペンライト片手に踊りながら舞台の演者と自身の一体感を演出し、自ら没入して酔い痴れている。

 最近では、体験型演劇といわれる「イマーシブ・シアター」が世界的に盛り上がっていて、客自身がキャストとして楽しめる。メタバースでは、ゴーグルを付けてバーチャル空間を散歩でき、「嗅」「味」「触」等の感覚技術もどんどん進化し、より没入感を味わえるようになってきている。「ほぼカニ」は人気食材だが、近い将来は、「ほぼ海外旅行」「ほぼ宇宙旅行」が安価でできるようになり、握手もハグも、キスすら感触的な満足感を得ることができるだろう。客が目と耳だけで参加している限り、客席と舞台(スクリーン)は厳格に区分けされているが、自分の周り360度が異次元の世界になれば、それがどれだけ現実とは異なる空間だったとしても、いままで生きてきた現実空間と変わらない臨場感ということになり、どっちが真でどっちが嘘かも分からなくなるに違いない。

 正月のテレビ番組に「芸能人格付けチェック」という人気番組があるが、いかに人間の五感はいい加減なものか……。多くの芸能人が、神戸牛のステーキと安肉ステーキの区別が付かないで、画面から消えてしまい、中には牛と豚の区別すら付かない人がいたりする(僕も偶に間違えます)。これからさらにメタバースが進化すれば、人間の五感を騙すのもより簡単になるだろう。

 多元宇宙論(マルチバース)という宇宙理論が昔からあり、人間のいる宇宙以外に未だ観測されていない複数の宇宙が物理学的に共存しているという仮説だ。ビッグバンのときに、おもちゃ箱からいろんな宇宙が飛び出たということで、別宇宙は割と近くにあるかも知れないというお話。しかしそれを証明するのは至難の業だろう。むしろ、銀河宇宙のどこかに宇宙人の住む星を見つけるほうが簡単そうだ。そんなラッキーな星を想像するとき、人は自分たちに似通った奴だろうと考えるが、それはこの宇宙が別の宇宙ではなく、一定の共通項の中で存在していると思うからだ。せいぜい酒飲みが、そいつらの血液はアルコールかも知れないと思うくらいなものだろう。けれど詩的な平和主義者は、そいつらは弱肉強食(捕食)の生態系から解放されていて、豊富な鉱物を餌とする共存システムで生きているなどと妄想する。

 断言できるが、そいつらは竹を食うパンダのような愛嬌ある顔つきに違いない。不思議なことだが、パンダの怒った顔を見たことのある人がいるだろうか? 繁殖期にオス同士が喧嘩するらしいが、その映像は見たくない。パンダよ、お前もか……。地球システム上、喧嘩をしない動物なんてありえない。ならば唯一、仮想空間だけが、地球システムからの離脱に成功する可能性を秘めている。仮想空間は天国と同じ、非現実の世界だからだ。

 メタバースが非現実の世界だとすると、地球は現実の世界だ。メタバースが体験型仮想空間だとすると、地球は体験型現実空間だ。その大きな違いは、仮想はイメージで膨らむ可能性を帯び、現実は現実の軛の中で大きく膨らむことはできないことだ。例えば「死」は、人間にとって最大の悲劇だ。現実という表舞台で活躍できるのは生きている役者だけで、死んじまったら舞台裏に引き下がる。芝居の世界でも現実の世界でも、一度死んだら二度と表舞台には現れない。芝居で偶に出てくるのは、幽霊になってか、役者が足りなかったか、一人二役か、影法師かのどちらかだ。

 しかし、人生という表舞台で動き回る連中は、死ぬなり殺されるなりしたら裏に回ることは理解しても、その裏のことをまったく知らない。なぜなら、表に出てきたときは赤ん坊だったし、裏に回るときは死ぬときだからだ。偶に死んで生き返る者はいるが、彼が舞台裏を見たと言い張っても、周りの者の多くは信じようとはしないだろう。彼の言を信じる者は、詩人か宗教家か、宗教に両足ないし片足を突っ込んでいる人々ぐらいなものだろう。

 昔、恐山の巫女(イタコ)が往年の人気レスラー、力道山の霊を降ろした様子をテレビ中継していた。弟子たちは皆いかつい背中を丸め、乗り移った巫女の声をかしこまって聞いていた。巫女の話を真と思って聞くか、嘘と思って聞くかは、弟子が師をどれぐらい敬愛していたかによるだろう。師に愛され敬愛していた弟子なら、それは師の言葉だと信じたに違いない。反対に、師に疎まれていた弟子なら、嘘っぱちだと思ったろう(力道山は依怙贔屓があったらしい)。死者は表舞台から舞台裏に回った者で、彼の地は月の裏側のように表舞台からは見ることができない。イザナギもオルフェウスもお話上の出来事だ。

 大切な人が死んだとき、その人はイザナミやエウリディケのように、残された者の心の中にイメージとして生き続ける。愛する者を失った悲しみを癒してくれるのは、巫女や教祖かも知れないが、彼らはあくまで感情移入過多の役者で、霊が憑依したと自ら信じ込み、舞台上から信者に向かって威圧的に語り掛ける。舞台上の巫女と教祖は進化を止めた媒体で、信者が求める一体感を拒絶する。しかし巫女を信じていれば、一時でも信者の心は慰むだろう。

 ならばメタバースはどうだろう。これは巫女の現代バージョンになり得る、進化し続ける媒体だ。この技術がさらに進化した近未来では、巫女や教祖の上を行くシズル感を愛弟子に与え、それがたとえ錯覚であろうと、愛弟子たちは力道山が確実にあの世で生きていると信じるに違いない。そして愛されなかった弟子は、疎まれた理由を力道山のアバターに問い掛けるだろう。師に対する二人の弟子の心中は異なるが、偽が真に思われるほどの錯覚性がアバターに付与されていれば両者とも納得し、前者は満足し、後者は和解するに違いない。

 僕が言いたいのは、進化系メタバースによる「ネクロポリス」の再現という物語だ。そこでの弟子たちは自らがアバターとなり、進化したゴーグルを通して、練習場のリンクの上で、生きていたときと変わらない力道山を取り囲み、野太い声の叱咤激励を受けることになる。そしてその世界は、仮にメタバース空間であっても、多元宇宙のもう一つの宇宙空間である死者たちの世界、「ネクロポリス」という疑似現実なのだ。古来から物語として伝承されてきた黄泉の国が、メタバースによってマルチバース(並行宇宙)として現出する。そして亡き人を慕う者は、それをもう一つの宇宙的現実だと錯覚する。 天国は信じる者にとっては並行宇宙的現実で、メタバースはそれを現世に引き下ろす。

(二)

 能に『隅田川』(室町時代)という演目ががある、一粒種の子供をさらわれた都の女が物狂いとなり、息子を探して武蔵国の隅田川に辿り着き、そこで息子の霊とめぐり会う悲しい物語だ。『隅田川』は単に狂女物語ではなく、愛する者を失った無数の人々の物語である。現実世界に生きる僕たちは、精神異常をきたした人の妄想世界を異常な世界として冷笑するが、同時に現実世界が狂いたくなるような悲劇で満ちていることも知っている。現実にある異常な光景を、毎日ニュースの映像で見ているのだから……。それでも自身が正常でいられるのは、自分に降りかかったものではなく、仮に降りかかっても、諦念や忘却によって傷を癒す努力をし続けるからだ。しかし傷は瘢痕として死ぬまで残る。

 忘却が努力なら、努力も才能の一つだから、中には上手くいかなくなる人も現れ、そうした人は狂女物の世界に導かれることになる。『隅田川』では、最初は狂女を馬鹿にしていた船乗りたちも、彼女を狂わせた顛末を知り、同情するようになる。彼女は行方不明の息子を探すとともに、喪失の悲しみから逃避するために、当てもなく放浪している。「居ても立っても居られない状況」というのは、焚火の上に座るようなものだ。苦しみから逃れるためには、どんな人間であろうが、徒労と知りつつも行動しなければならなくなる。そうして彼女は、息子を追い続けるうちに発狂した。

 物狂能は、愛する者と再会できて正常に戻り、ハッピーエンドに終わるのが常だが、『隅田川』では母親は再会した息子を抱きしめようとしても、息子は死んでいて生者と死者が触れ合うことは叶わない。しかしこれは、パッピーエンドではないが最悪の悲劇でもないだろう。彼女を狂わしたのは行方知れずの状況で、崩壊した精神は只々息子に会いたい思いで、四六時中追い詰められていた。けれど最後に舞台裏から息子が現れ、彼女は息子の死を悟ることになる。仮に触れ合うことが叶わなかったとしても、彼女は舞台裏の息子を見ることができた。それ以降、現実世界で息子を探し回る必要はなくなったわけだ。粗筋にはないその後の彼女を想像するに、異質のマルチバース空間で、息子と楽しく戯れる姿が想像できる。精神は正常に戻らなくても、諦めようとする苛酷な努力は必要としない。彼女は妄想の中で息子と戯れ、その世界は癒しに満たされて、幸せを感じるに違いない。きっとそれは、片思いの若者が白日夢の中で彼女と愛し合い、心を癒すようなものだ(蛇足)。

 人は戦後何十年経っても、行方知らずの息子の遺骨を探しに南方に赴く。それは息子の骨を探して墓に入れる目的と同時に、戦死したという確証を得るためだ。骨が見つからない限り、「いまでもどこかで生きているのではないか」と思うのが親心だろう。しかしその状態では癒しは訪れない。その前に諦めることが必要で、諦めるには確証が必要なのだ。けれど明らかに、諦められない状況でもそれなりに癒しを導き入れてくれるのが、妄想という異質世界だ。人さらいに連れ去られた息子が行方不明だろうと、その死体が見つかろうと、妄想が病んだ心を癒す逃避ツールであることは疑いない。

 ミシェル・フーコーによれば、狂気は中世では宗教的に容認され、時代的精神の一部だった、しかし近世になると、精神障害者は社会から疎外され、一律に監禁されることになる。けれど彼らは現実世界の隣にあるマルチバース(並行宇宙)の住人であるだけで、社会的には異邦人として認識され、移民のように社会に受け入れるか、収容所に押し込むかの問題だった。現在は当然のこと普通の人と同じに、社会的問題を起こさない限りは拘禁されることもない。異常と正常の違いは、妄想世界であるマルチバースに止まる時間が長いか短いかの問題に過ぎない。さらに付け加えれば、TPOの問題でもあるだろう。

 同じオフィスでも、みんながテレビでサッカーを見ていて、誰かがギャーギャーわめき出せば正常の範囲で、ワールドカップの決勝に日本が進出すれば、オフィス中がそんな状態になるだろう。しかし、みんなが静かに仕事をしているときに急に騒ぎ出せば、これは異常に違いない。けれどその人はそのとき、隣のマルチバースでサッカーを観ていたのかも知れない。彼は現実世界で仕事をしなければいけないのに、妄想の世界からなかなか戻ることができない。人々は休日にディズニーランドや海外旅行で別世界を楽しむが、平日は仕事に戻って働いている。しかし彼の心は仕事場でもディズニーランドで遊んでいて、仕事が手に付かなくなる。彼は楽しい自分だけの妄想から抜け出すことができない。ならば若い人が始終スマホの世界に遊んでいて、TPOがわきまえられなくなれば、それが正常の範囲かどうかは微妙になってくる。スマホも妄想も、酒やタバコや麻薬のように、依存症があるからだ。

 妄想依存症が精神障害だとすれば、メタバースは妄想の姉妹的存在で、毒にも薬にもなり得るツールということになる。それは白日夢がリアルな形で現出する科学兵器だ。いずれメタバース依存症が出てくるだろうが、メタバースが妄想なら、それは一種の精神障害ということになる。しかし「毒を持って毒を制す」という言葉があるように、少々の毒は薬になる。モルヒネは多量になると依存症を起こすが、少量なら優秀な鎮痛剤だ。ならばメタバースは、精神疾患の画期的な療法として、癌の免疫療法とともに期待される存在になるだろう。もちろんそれが短時間に制約されるうちは正常に止まり、長時間に及べば異常に変化する。どっぷりその世界に浸かってしまえば、逃避型異質世界の住人になってしまい、離脱も難しくなる。しかし、亡き人が毎夜の夢枕に現れるような精神衰弱状態になれば、メタバースの導入は精神安定剤や睡眠導入剤の上を行く効果を発揮するだろう。

 薬は緩和剤にはなり得ても、神経を麻痺させるだけで、悲しみの根本治療にはなり得ない。愛する人を失った喪失感は、抜けてしまった心の空洞を詰め物で埋めない限りは納まらない。失われた骨は同形の人工骨で代替する必要がある。それは生前の愛しい人の疑似エネルギーで満ちている。なぜなら、愛情を注いできたエネルギーを返してくれるエネルギーを見出さなければ、虚しさは埋まらないからだ。愛する者を失った多くの人が、アンフォルタス王の腹の傷口のように、連綿とじくじくした痛みを抱えている。そしてその痛みは死ぬまで続く。しかし無垢な若者のパルジファルが歩み出て、エネルギーに満ちた聖槍を傷口に当てると、たちまち傷は癒えるのだ。そのパルジファルこそが、愛しい人の精緻なアバターというわけだ。

 『ネクロポリス』は、長い年月において喪失感に悩み続ける人々への、画期的な治療ルーツとして、専門家の創意工夫で創られるAI(ASI)技術を駆使したメタバースだ。メタバースに入り込む人々は短時間にせよ、現実世界から逃避するため、あるいは現実世界にない価値を求めてそこに訪れる。そこで迎える人たちは、行方知らずの子供や、いまは亡き妻や夫や恋人、両親だ。彼らは現実世界の舞台裏で出番を待っていたアバターという名の役者たちだ。メタバースの世界だけが、現実的カラクリの不可能性を可能にする劇場空間なのだ。

 多くの人がメタバースに飽きてしまうのは、その技術が発展途上であることもあるだろう。けれど一番の原因は、それが遊びにカテゴライズされていて、単に退屈しのぎで、何の目的もなかったことによるのだろう。しかし『ネクロポリス』は、遊びのためのツールではない。病気や事故で亡くした愛する人に遭うことのできる、最良の妄想空間なのだ。
「良き妄想は良き治療となり、良き人生を生む。悪しき妄想は悪しき疾病となり、悪しき人生に終わる」。
 メタバースの未来に期待しつつ、そのVR的進化を待つことにしよう(ご安心ください、失恋は多々あれど僕は正気です)。

 

 

ショートショート
イマーシブ・シアター殺人事件

 今日は泉と二人で、完全没入体験のできるイマーシブ・シアターに遊びに行く。勇のところに二枚の無料招待券が届いたからだ。二人は最寄り駅で待ち合わせ、手を繋いでシアターのある複合施設を訪れた。チケットを出してシアターに入場すると、そこはヨーロッパ風の古い建物と樹木に囲まれた円形の噴水広場。ニンフたちの石像が取り囲む背の高い二段仕立ての噴水を中心に、直径三メートルほどの円い池があり、その横にベンチが置いてある。

 二人がベンチに座ると、左から黒いマスク黒メガネ、黒ハットの黒づくめ集団、右から赤いマスク赤メガネ、赤ベレーの赤づくめ集団が飛び出してきて、二人の目の前で激しい乱闘が始まった。二人はすごい迫力だと感心しながら見入っていたが、突然黒装束の一人が勇の右腕を掴んで引っ張り、勇は黒集団に取り込まれて連れ去られ、泉は泉で同じように赤集団に連れ去られてしまった。

 勇は薄汚い地下室に連れ込まれ、中央の椅子に座らされて後ろ手に手錠を掛けられた。部屋の中には拷問台をはじめ、「恥の仮面」や「鉄の処女」「魔女の椅子」などの拷問器具が置かれ、壁には「異端者のフォーク」や様々な種類の鞭が吊り下げられている。隊長のような男が野太い声で、「お前は赤い旅団のメンバーだろう」と問い掛けた。勇は即座に、「いいえ違います」と答える。
「ならばお前は一般人だな?」
「はい、そうだと思います」
「バカな! この国では日和見主義者は許されない。ノンポリは死罪に値するのだ。お前が助かりたければ、右か左かを選択しろ。お前はどっちなんだ!」と言って、隊長は勇の胸倉を掴んだ。

 客に対して無礼だろうと勇は思いながら、これがイマーシブ・シアターの没入感かと諦め、相手が黒なら右翼だろうと考えて「左だとどうなります?」と尋ねた。
「その場合は、この部屋にある拷問器具のどれかを試してもらうことになる」
「じゃあ、右にします」
 すると連中は急に笑い出し、「なあんだ、君は仲間じゃないか」と態度が柔らかくなって手錠も外された。隊長は部下から髑髏を渡され、「仲間ならこの髑髏の額にキスをするんだ」と強要するので、勇は仕方なしにキスをした。すると全員が拍手し、ブラボーと大袈裟に騒ぐ。
「この髑髏は誰のものか知ってるかい?」
「さあ……」
「我らが偉大なムッソリーニさ」
 勇は良く知らなかったので、知ったように「ああそうですか……」と呟いた。
「そして我々の神にキスをしたことにより、いまから君は黒い旅団のメンバーとして承認された。これから君は、我々とともに行動することになる」と隊長。勇は頷き、「いよいよ参加型の劇が始まるのか」と心の中で呟いて、ほくそ笑んだ。

 「さて、我々は黒い闇将軍の直属の突撃隊である。ムッソリーニを信奉する闇将軍は我が国の大臣だが、当然その名をバラすことは禁じられている。バラした場合は、闇将軍のバックヤードであるマフィアから刺客が送り込まれる。だから下っ端の君は、余計なことに首を突っ込まないほうがいい。君は、私の命令に従って行動するのだ」
「分かりました」
「大臣から我々に与えられた任務は、先ほど我々が喧嘩をした赤い旅団を壊滅することだ。奴らは過激な極左集団として、国内で様々な破壊活動を行っている。我々の資金源はマフィアだが、奴らの資金源はソ連だ。しかし、両方とも資金源は別々のマフィアで、結局はマフィアの抗争であるという説もある。とどのつまり、金の出どころはどこでもいいんだ。闇の世界は入り組んでるし、君が深く知る必要ははない」
 勇は「めんどくせえ、どうでもいい」と思って苦笑しながら、「分かりました」と答える。

 「我々は、赤い旅団の次なるターゲット情報を入手したのだ。それは我々の親分が実質的に経営する銀行の爆破計画だ。当然そこには我々の破壊活動費も貯まっている。我々は、奴らの破壊工作を阻止しなければならない。その銀行は、さっきの広場にある古い建物だ。奴らが爆薬を建物内のホールに持ち組む前に広場で食い止め、全滅させる」
「どうやって?」と勇は尋ねる。
 
 すると、三人の部下が、ピストルやマシンガンを抱えて入ってきた。ピストルの一つが勇に渡される。
「君はピストルを撃ったことはないのかね」と隊長。
「ありません」
「ならば、確実に一人を殺せばいい。あとは我々が殺る。君が殺す相手は君と同じに、銃器に不慣れな赤い旅団の新入りだ」と言って、隊長は部下に目配せすると、部下が写真を広げる。それは、シアターの入口で撮られた泉の愛らしい写真だ。勇は思わず吹き出した。
「いいかね、君は銃に不慣れだから、至近距離で引き金を引くのだ。的を定めて思い切り引く。決して試し打ちをしてはいけない。音が響いて通報され、警察がやってくる」
「了解です」
「分かったな、銃の扱いは慎重に。間違ってもターゲット以外の者を殺傷してはいけない。他の奴らは全員プロの殺し屋だ。我々に任せろ」
「分かりました」
「さあ、これから出発して、泉のある広場で敵の集団を待ち伏せるのだ」
 全員が銃器を上に掲げて「エイエイオウ!」と雄叫びを上げたので、勇は「ずいぶん日本的だな」とは思いながらも、かったるいけれど同じ仕草をした。

 一方、連れ去られた泉は黒集団と同じように、赤集団の拷問部屋に引きずり込まれ、女ボスから勇と似たような話を聞かされ、無理やり赤軍団のメンバーにさせられた。そうして、勇の写真を見せられ、ピストルを渡され、こいつを撃つんだと命令された。
 「こいつだけを狙うのよ。近付いて至近距離で撃ちなさい。他の奴らはあたしたちが殺るから」 

 最初に黒集団が広場に戻り、全員が噴水の周りの木陰に隠れた。すると五分後に赤集団がやって来て、銀行に向かって噴水の前を通過したとき、木陰から黒集団が飛び出して、銃火器で一斉攻撃を始めた。慌てた赤集団は噴水の水の中に飛び込んで、池の縁に銃器を固定して応戦し始めた。まるでモンタギュー家とキャピュレット家の抗争の中のロミオとジュリエットみたいに、勇と泉だけがスポットライトを浴びて近付いていくと、銃撃の音は鎮まり、二人の周りは暗黒の世界となる。そのとき二人は、深く愛し合っていることを実感した。

 「何て素敵なシーンだろう」と同時に同じことを思って幸せに酔い痴れ、思わず涙を流しそうになった。そして二人が噴水の両側まで近付くと、それは二階のバルコニーに現れたジュリエットと、庭の植え込みから飛び出したロミオの位置関係に上手く嵌まった。この瞬間を待っていたのだろう、パッと全照明がスイッチオンされ、いつの間にか広場は花で埋め尽くされ、黒集団も赤集団も銃を捨てて二人を祝福する花束を握っている。

 そのとき二人は、きっとピストルはクラッカーで、引き金を引けば銃口から紙吹雪やテープが飛び散るものと信じた。笑いながら狙いを定めて、示し合わせたように思い切り引き金を引いたのだ。そして同時に胸から鮮血の紙吹雪を飛び散らせて、二人は仰け反るように後ろに倒れ込んだ。広場中が阿鼻叫喚の巷と化した。二人が想像した通り、ピストルはクラッカーであるべきはずだった。まるで大昔にこの広場で起きた惨劇が、生々しく再現されたかのような残酷な光景だった。

 後日、黒集団の隊長と、赤集団の隊長が揃って逮捕された。黒集団の隊長は、泉に振られた前の恋人だった。赤集団の隊長は、勇に振られた前の恋人だった。二人は付きまとううちに知合いとなり、協力してこの復讐計画を練り上げ、実行に移したというわけだった。その後、罪びと二人は獄中結婚をしたという噂が、巷に流れ出した……。

(了)



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