疲れていると創作ができなくなる問題|近況報告、夢の選択
ついついスマホ、YouTubeなそこのあなた!
こんにちは。
最近の僕もそうです(°▽°)
受験勉強に追われまくっております。主に精神的に。
それで手軽なものばかりに手を伸ばしてしまう。
無職だけど全然ニートじゃない。めっちゃくちゃに忙しい。
受験対策の他にもやりたいことが多すぎて、でもそれをなかなか始めることができないのがもどかくて。
一度始めたものはとことん追求しないと気が済まない性分でして、しかし受験勉強というある種の縛り(自分で決めて勝手にやっているわけだけれど)があるため深く追い求めることはできないのです。
というか、果たして命尽きるその時までにやりたいこと全てをやることはできるのだろうか、といつも疑問に思いながら生きています。
夢の選択
そういえば後日ライナーノートに書こうと思っていた「夢の選択」という自作曲。
これにはまさにそのまま、
「自分で選んだ道だけど 全てが楽しいはずがない」
という歌詞を入れました。
夢を選ぶということは、キラキラしていてワクワクすることだけじゃない。
いや、むしろそういった感情はほとんどなくて、ひたすらに現実を直視し続けて、泥臭いことを愚直にやる。ものすごく地味なことの、どこまでも細かいコツコツとした積み重ね。
そしてその先に思い描く理想、それが必ず叶う保証はどこにもない。一切ない。
そう思うのです。だから、雪に落ちている花。
雪は切なく儚くて、しかしふわふわとした優しさがある。でも、結局は冷たい。溶けてなくなり、蒸発する。
花は綺麗に咲き誇るけれど、いつか必ず枯れ落ちる。
写真自体は、雪の日に1人で公園に出かけた時に撮ったものです。なんかいい感じに花の上に雪がパラパラとかかっていました。
2023年の2月10日です。
なかなか写真が見つからないと探していたのですが、去年撮ったものでした。
てっきり今年のものかと思っていて。
時の流れとはなんとも残酷で、しかし美しい。
雪が好きなのです。子どもの頃からずっと。
…この曲の歌詞は、今の心境と完全に同じです。
当時は別の理由からこの詩を考えつきましたが、しかし感じていることとしては、そこに変わりはありません。
ハッとしました。自分の創作物に救われることがあるのか、と。
コスパいいですね。地産地消。自家栽培。家庭用太陽光発電。?違うか。
音割れしまくっているゴリゴリのロック曲です。
でもそれが当時の嘘偽りのない感情だったので、そのままにしています。
決して作編曲の技量が少なかったから、というわけではないですよ?
そうですよ?
ロックについてちょっと語る
ロックって、その懐の広さが好きなんですよね。
「ホッブズ、ロック、ルソー。からのモンテスキューで三権分立」
のJohn Locke氏ではありません。鍵をかけることでもありません。
ロケンロール、Rock music、ぼっち・ざ・ろっく!のロックです。
ロックとは一体なんなのか。
「これがロックだ!!」
といえば、それはもうロックンロールだと思うのです。
…なんか最近似たようなことを主張した気がするのですが、そうそう
これでした。
これと同じことかもな、と。
エレクトリックギターをゴリゴリに歪ませて、ドラムをバカスカぶっ叩いて、よくわからないことを全力で叫び上げる。
はちゃめちゃにかっこいい。
これがロックだーーーー!!!!
まぁこの「夢の選択」は全てDTMの打ち込みなので、僕はただモニターの前にヘッドホンをつけて座ってマウスとキーボード(PCのも鍵盤も両方)をぽちぽちしていただけなのですが。
しぬほど地味な絵面です。
ちなみにアイキャッチの写真。
これは「音楽も文章も、キーボードとキーボードを使って自分の手から作品が生まれている」という意味合いを表現したかったのです。
すでにわかっていた方がいれば、それはそれは嬉しいですd( ̄  ̄)
…動き回りながらエレキギターをかき鳴らして全力でシャウトするGt.&Vo.みたいなのは僕にはありません。憧れはするもののできる気が全くしません。
でも。
「あいつの生き様はロックンロールだよな」「あいつはロックンローラーだな」みたいなことを言うことがあるじゃないですか。
これが全てを表していると思うのですよね。
なんでもあり。それがロック。人生。
なので、僕もロケンローラーです。←【NEW!!】
この記事(大体のものはそうだけど)は原稿や下書きも何もなく全てその場の思いつきで書いているのですが、なかなかオツなことを思いついてしまったのではないだろうか。
これからは
'02, 音楽家/作家
に加えて、
'02, 音楽家/作家/ロケンローラー
と名乗っていこうと思います。
ちなみにさっきから「ロックンロール」と書いたり「ロケンロール」と書いたりしていることに理由はありません。
ただ表現の語感の問題で、それを執筆している段階の気分で適当に書いています。
でも、
ロック
ロックンロール
Rock Music
Rock and Roll
Rock ’n’ Roll
ロケンロール
の中でも一番下に書いてしまうあたり、やっぱりロケンロールの言い方がなんか好きなのでこれが好きです(小並感)。
だって、ねぇ。
自分で言うのもあれですけど、僕は割と「普通」じゃない人生を送っているし、noteで発信していること、作っている音楽、たまにXにポストすること、それらには何の脈絡もジャンル定義も一貫したスタンスもない。
感情のコントロールは中々難しいし、それは最近わかった
これらのせいなのかもしれない。
繊細すぎることを言ったと思えば暴論ともいえるような、都合よく解釈すれば豪快な意見もいう。
そういえばこんなことも書いた。
ただ唯一全てに共通しているのは、抑えきれない情動をそのままにただぶつけている、表現、芸術は爆発だ、ということ。
ただ純粋にそう思うのです。
なのでそれらを全てまとめて、ロケンロール!!
それでいいじゃん、と思ったわけです。
結構にスマートなまとめかたでしょう?
というか、そもそも「完璧に、綺麗に、敷かれたレールを一歩も踏み外すことなく歩き切る人生」なんて存在し得ないのでは?と。
もしかしたら、あり得るのかもしれない。存在し得るのかもしれない。
でも、そういう人はおそらく表現者、芸術家にはならないし、まずなれないと感じます。
だって、何かを表現するということ、それは現実に何かしらの不満や満足できないことがあるから、どうしようもないやりきれない感情を、でもどうにかしようともがいて足掻いて暴れて、そして辿り着く手段だと思うからです。
ここまで自覚していなくても、少しでも何かを表現したいと思った時点で、そこには必ずこういった情動があるはず。
あまり詳しく調べていませんが、「保育園落ちた日本しね」というものが一時期ありましたよね。あれも、芸術の爆発、短歌、詩だと言えると思うのですよ。
ネタじゃなくてマジで。
その一言に、ありとあらゆる感情が詰まっている。どうしようもない思いが込められている。
ロックだなぁ!
ところがクラシックでは、明確な枠組みや手法があり、ガッチリとそれは固定されているじゃないですか。遊びの余地がないというか、どこか高貴すぎて近寄りがたい雰囲気を放ちまくっているというか。
なんかすごそうな数百年前に生きていた髭もじゃのおじさんたちが作り出したよくらからんけどどうやらいい感じに整っているっぽいちょっと数学的な理論
なわけです。
なんかすごそうというか、実際いま受験勉強で学んでいるなかで、結構システマティックで便利なのだなぁ、とやや感心しています。
「巨人の肩に立つ」ってやつですか。
…
ここまであれこれ書いてきましたが、ロックの明確な定義は知らないし、クラシックを批判するつもりは全くありません。
ロックも含めて、今ある大体の音楽の基礎はクラシカル音楽、西洋音楽理論をもとにして発展してきたものだし、そしてこれから大学でそれらクラシック音楽の技法もしっかりと学ぶ予定なので、また後日思うことを書きます。
歌詞について思うこと
自作自演というものでしょうか。
自分で作って自分で演じる。
演じるわけではないですけど、思うことを書きます。改めて言いたいことがたくさんある。
一応、歌詞全文をここに引用しておきます。
完全に自分の著作物だと、誰になんの許可もとることなく自由にあれこれ引っ張ってこられるのでとても楽しいです。
他の人の曲でまるまる持ってきたら、それはただの無断転載、無断使用になってしまいますからね。
…
この曲で一番言いたかったことはきっと、
です。
「きっと」というのは、確かに自分で作ったものだからその時に気持ちは覚えているものの、しかし明確な感情を完全に再現することは不可能なためです。
マウスを使った何かの実験で、絶対に記憶が消えない脳を作り出すことに成功したものがあるらしいのですが、そのネズミは代わりに時間という概念が消滅したらしいです。それは怖い。
人間が人間なのは、言語と時間の二つがあるからだ、と僕は思っているので。
だから無限の記憶は欲しくない。
ちょっと話がズレましたが、実際、太陽系の寿命というのはあと50億年ほどらしいです。
途方もなく長いけれども、決して無限ではない。
そこには必ず終わりがある。全ての終わり。
僕たち人間もそこと比べると言葉では言い表せないほどに短い生涯なわけだけれど、しかし有限という点では全く同じ。
だから
だし、
。
そして
。
この記事は当初「随筆」のマガジン
に追加しようと思っていたのですが、ここまで書いたので、ライナーノートにしてしまいます。
この曲を作った時はまだ前の大学で、
果たして自分は一体どうやって生きていきたいのか
なぜ全く音楽に関係ない学部学科を選んでしまったのか
本当に独学だけで作編曲をやっていてこの先大丈夫なのか
人はなぜ生きているのか
なんてことを考えていました。
まぁ、人はなぜ生きているのかというのは今でもふとした時に思うことがあります。
それを今、全く違う立場と環境でこうして振り返ってみることになるとは全く予想していなかった。
夢を選択して、痛みを受け入れた。置かれた場所で咲くのではなく、姿を変えて飛び立つことにした。
だから人生はつらくも面白いわけです。
このライナーノートシリーズ、
「自作曲について解説する」といいながら半分以上は「社会について思うこと」になっている記事が多々あるので、そういった意味では今回の記事はかなり真面目に解説することができたと思います。
疲れていると創作ができなくなる問題
何を創作と呼ぶか
という問いがまずあります。
Xの短文
鼻歌
幼稚園児の落書き
これらは、簡単そうに思えるから一見大して価値がないように思えて、創作とは呼べなさそうなものです。
しかし!
それを受け取る人によってどれほどの価値を持つかは全てが変わります。
大好きな人のポストだったら「朝ご飯にこれを食べた」といったことだけでもものすごく興味が湧くし、ただの鼻歌であっても、それを奏でたのが藤原基央ならとんでもない神曲と扱われるかもしれない。
幼稚園児の落書きであっても、愛する我が子のものであれば、この世で最も価値が高い芸術品かもしれない。
そういうことだと思います。
ですが、ここでは
数千文字以上の長文
ある程度手間暇かけたYouTube動画
楽曲制作
のようなものを創作と呼びたいと思います。見事に僕がやっていることしか書かれていませんね。ははは。
無名の何もない人間が誰かに価値を感じてもらおうと思ったら、それはやっぱりある程度充実したコンテンツを作っていくしか方法はないじゃないですか。
だからここではある程度手間暇かけたものを創作と呼ぶことにします。
だけれども
といったことも同時に思っているので、まだ答えは出ません。
ただそれでもわかることは、この記事のタイトルにもそう書いたように、疲れていると創作ができなくなるということです。
じっくり時間をかけて長文を書いたり、曲を制作したりすることは、やっぱりかなりの体力を使います。脳みそがゴリゴリにフル回転している。
だから日頃のタスクで消耗していたり、受験勉強のようなもので疲れていたりすると、ものは書けなくなるし、曲は思いつかなくなる。
そして時間がかかったり難解だったりする新しいことに手をつけるのを敬遠し、手軽に消費できるコンテンツに小刻みに手を伸ばす。
おかげでいつまで経っても本質的な満足感を得ることはできず、何かを生み出すこともできない。
そんなよくないループにハマってしまいます。
実際、ここ最近は上記のループに陥っていました。
こうして長文を書きたいのだけれど、しかし一度書き始めると数時間はとられる。いや、数日かな。そのため控えていました。
それでも7日間なのですけど。
でも、どうにも気持ちが悪くなってきてしまって。7日間は長かった。僕にとっては。
夏、ちょうど今ですね。
に、風呂に浸かることはおろか、シャワーを5日ほど浴びていない感じ。
野菜の細かい繊維が奥歯に詰まっているのを一日中我慢している感じ。
筋トレをやるのを連続でサボってしまった感じ。
それらと同じです。
インプットとアウトプットのバランス、2つのタンク
風呂や歯磨き、筋トレと違って文章執筆は習慣化しているわけではなく、その時の突発的な感情の発露でしかないのですが、しかしインプットとアウトプットのバランスは大事であるとはよく言ったもので、どちらかに偏ると気分が悪くなってしまうのですね。
誰かと話すことで幾許かのアウトプットにはなっているだろうし、Xにちょびっと何かを呟いたり、
iCloudメモに思ったこと、感じたことを日々書き溜めてはいました。
「とりあえずメモっておいたシリーズ」
の最新作が日に日に膨らみ続ける一方でして、iCloudメモが
[12/時間ができたら考える]
12まで来てしまいました。
これ、一つのメモに書き続けていると徐々に動作が重くなってくるのです。
だから分けています。
しかしそれでも限界がきたというか。iCloudメモじゃなくて僕が。
おしゃべりでも短文メモでもツイッター本社いつ行ったーでもなく、長文という形式でしか発散できない何かはやはりあるようでした。
長い文章を書いているとこう、文字通りまさに脳が軽くなっていく感覚というか、パソコンのメモリ解放というか、そんな感じがするんですよね。
他のものでは絶対に代替することのできない、これでしか体験することのできない感覚。
何かの感想記事を書くことももちろん楽しい。最近読んだこれは中々に素晴らしい作品でした。
しかし、自分の中に作品を取り込んだことで生まれる感情と、自分が日々生きるために行なっていることで生まれる感情は別ものな気がしていて、もちろんクロスオーバーはしているのだけれども、しかし作品世界と現実世界は別じゃないですか。
物理的には。脳科学的にはどちらも区別がつかないから同じだと思っているのですけれども。
で、その
作品世界
現実世界
にそれぞれに感情のタンク、インプットとアウトプットのバランスを保つ機構のようなものがある気がしていて。
ここでサラサラっとイラストを描けたら視覚に簡単に訴えることができるからわかりやすいし、そして素敵なのですけれどね。
絵は全く描けません。
僕の画力は「アメトーーク!」の「絵心ない芸人」と肩を張り合えるレベルです。マジです。
…悲しい。
この二つの感情のストックは、それぞれ個別に解放していく必要があるっぽいことに気がつきました。
だから作品について思うことも書くし、日頃感じていることも書く。
そして、文章では表現しきれないものを音楽で表現するのです。
最後に
一番初めにタイトルを考え、「近況報告」とつけたはいいものの何も書くことがなかったらどうしようと思っていたのですが、しかし書き始めているうちに文字数が多くなりすぎて困ったぞ、となるまで思いを連ねることができたのでよかったです。
これまでの人生を、過去記事や楽曲を交えつつ振り返ることができた。集大成とまでは全くいかないものの、しかしいま確かな満足感を覚えています。
この記事では、上に書いた「夢の選択」のくだりは今この段落よりも前にあるわけですが、しかし書いた順番としては、この見出しよりも後で思いつきました。
そういえばこれについて書いても良いかもな、と。
「ロックについて語る」もその後で思いつきました。
膨らみすぎたiCloudメモは、結局ほとんど参照することなく、終わってしまった。
なのでメモを消費することができなかった!
あぁ、ストックが増える一方でまたしてもアウトプットが追いつかない…。。。。!
そんな感じで書くことはそれ自体が圧倒的な思考の整理になるし、新しいことを発見する冒険だし、ただひたすらにとても楽しいのです。
で、多分この記事で僕が言いたいことは、
人生はロックだ
ということです。
一言で表せることを7,747字も書きました。引用部もあるけれども。
長くなったので記事を分割しようかと考えましたが、しかしせっかく勢いで書けたもの、爆発した芸術があるのでこのままにしておきます。
もう同じ感情になることは二度とないわけで、だから同じ文章を書くことも絶対にできない。
ちょっとした情報の刺激が入るだけで、すぐに心は乱されて、当初の気持ちで書き上げることは不可能になってしまうので。
読んでくれてどうもありがとうございます。
ではまた( ・ω・ )/
(´・ω・)つ旦