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ozzy
2020年7月22日 07:30
何より私が彼女に一目を置いたのは、現況に対して愚痴をこぼさない事である。無論、私はその時の環境にずいぶんと慣れてきていたし、不満を口にしてもなんら糧にならないことは十分理解していた。 私は彼女の価値観が好きだったのだ。 私達は経済的に余裕が無くとも、なんとか毎日を楽しく過ごしていたのである。お互いに支えあっていたなどという安易で陳腐な言い回しはしたくないが、あながち否定も出来ない。 幸せ
2020年7月23日 07:35
彼女はカレーライスを盛った皿をテーブルに置いた。白米とカレーの濃厚な香りがふんわりと辺りを支配する。私は女性の部屋にあがるという初めての行為の緊張からか、忘れていた空腹感をその時思い出した。「食べて食べて」 私は言われるままほおばった。目の前の料理は美味いのか、そうでないのか。どちらにしても私の返答は変わらないが出来れば嘘はつかず、素直な気持ちを言葉にしたい。 しかし私の心配は杞憂に過ぎ
2020年7月24日 07:30
「俺の知らない趣味とかあるの?」「私の事はもういいじゃない」 成美は私の言葉を遮るようにコーヒーカップを手に立ちあがると振り向きもせずにすげなく言った。そこからもう一踏ん張りする勇気は無い。むしろ諦めというより、彼女に対する信頼と考える事にした。 しかし現実にはその考え方が自らを疑心暗鬼にさせるスタートなのだが、それを恋は盲目というものかもしれない。実際、盲目で結構と思っていた節もある。
2020年7月25日 07:30
職場であるスーパーマーケットの斜向かいには「喫茶アラタ」がぽつねんと身を潜めるようにある。昔ながらの小さな店構えで、白髪で老眼鏡をかけたマスターがコポコポと音を立て、琥珀色の液体を注いでいる様子は妙に哀愁があって私はいたく気に入っていた。 店内には窓際にカップルが一組いるだけである。私は一番奥の席でホットコーヒーをすすりながら榊を待っていた。そうして暫くの間、彼について考えていた。 榊は半
2020年7月27日 07:30
「お前のその疑心暗鬼はすれ違いの原因になる。実際お前だって俺なんかに相談するって事は彼女になんらかの疑いを持ち始めているって事だろう?」 私が小さく肯くと榊は微笑んだ。「恋人同士なら素直な気持ちをぶつけ合えばいいんだよ。案外それで解決したりするもんなんだから。別にかっこ悪いことじゃないと思うぜ、俺は」榊はまるで台詞を諳んじるようだった。「そう言われるとそうなんですけど」 私はまだ煮え切
2020年7月28日 07:30
しばらく時間を潰してから帰宅すると、玄関の前に成美が立っていた。私の顔を見ると手にしていた買い物袋を掲げて笑った。「ご飯食べてないでしょ?」 成美は台所に入ると慣れた手つきで夕食の支度を始めた。「成美、ちょっと話したいことがあるんだ」 冷蔵庫を覗いている成美は不思議そうな顔をして振り返った。私はベッドの上に胡坐をかいて彼女の手が空くのを待った。「何?」 エプロンで手を拭きつつ彼女は
2020年7月29日 07:30
「よかったじゃないか」 心底そう思った。肉親が居ない私は彼女のこれまでしてきた苦労をまるで自分の事のように感じていたからだ。 それは目に見える苦労だけでなく、孤独という救いようの無い重荷の事もである。本当の孤独というものは、この平和な世の中で感じることは然程ない。だが、私達は抗えない。 血のつながりのない孤独。 それを受け入れざるを得ない現実。 救いようがない苦労はどんな言葉でも癒される
2020年7月30日 07:30
新宿から中央線と総武線を乗り継ぎ二時間半。その病院は海岸沿いにあった。成美と私は海風が容赦なく吹きすさぶ中、花束を片手に終始口数少なく永遠にも思われる海岸線の国道をとぼとぼと歩いた。 足取りが重い。これまで一人で生きてきた人間にとって突然の朗報であるはずなのに、それが開けてはならないパンドラの箱のように思えるのも無理はない。それは警戒心からなのか、現状に対する保守からなのか。彼女がそんな風に穿
2020年7月31日 07:30
三階まで階段を上がり、廊下を進む。時折開け放した部屋を覗くと窓の外には広大な海が広がっていた。患者にとってそれがどう映るのか定かではないが、決して悪くないような気がする。きっと彼女の母親もこの海を見てなにか思う事があるのではないだろうか。横を歩く成美は依然として顔を紅潮させている。まるでその緊張が心臓から全身に駆け巡り、耳の先まで赤くしているようである。 彼女がある部屋の前で足を止めた。その部
2020年8月1日 07:30
その日以来、成美は休みの日になると母親の元へ通うようになった。私もついていこうと提案するが彼女は断った。どうやら、母親の娘に対する対応を見られたくないらしい。 おそらく娘に対する対応など、ない。母親からしてみれば、見知らぬ他人が頻繁に見舞いにくるくらいにしか思っていないのかもしれない。それが成美にとっては辛いはずだった。それでも彼女はたった一人の肉親である母親を求めて懸命に千葉まで足繁く通って
2020年8月3日 07:30
話し終えると沈痛な空気が辺りを支配した。それは重く私にのしかかってくるようで、居心地が悪い。腕を組んだままの榊が口を開いたのはしばらく立ってからだった。「考え過ぎだよ」 再び榊は歯を見せた。その瞬間、榊はいつもの彼に戻った。「勝手にお前が一喜一憂しているだけに聞こえるぜ。本当にお前が言う程、彼女は目の前の事を憂いているのかな」 私は二の句が継げない。「自分が他人に不幸だと思われるのって
2020年8月4日 07:30
パスタを平らげ、コーヒーを飲み終えた私達は会計をする為に席を立つ。財布を開いている私を彼女は制止した。「ここは私がご馳走しますから」 のんびりとした口調で成美は言った。私は一度断ったが、いつまでも問答するのもどうかと思い彼女の言葉に甘える事にした。彼女に「ありがとう」と軽く手を挙げて一足先に店を出る。 通りを何気なく見渡し、私は深く息を吸い込んだ。この後どこへ行こうかと思索を巡らせていると
2020年8月5日 07:30
結局どんよりとした雰囲気を引きずったまま、いやそれは私が持て余していただけであって一方の成美は笑顔を取り戻していた。彼女はこの日も千葉の母親の元へ向かうらしく、駅前で別れた。 一人になり帰路についても私の頭の中は彼女の今を憂うことでいっぱいだった。いつまでたっても抜け出せないトンネルに迷い込んだようで、希望は傍らにあるのにそれを照らす術がないようで、それは苛立ちに変わりやがて憤りに変わる。だ
2020年8月6日 07:30
私は聞いた事の無い彼女の慟哭に狼狽したが、目の前に榊がいてくれるだけでなんとか冷静を保つ事が出来た。「ゆっくり話して。泣いているだけじゃわからないって」 榊が目を丸くした。声を出さずに「泣いているのか?」と聞いてくる。私は小さく頷く。「お母さんの入院費で」 私はその彼女の言葉で察した。まさに今榊に相談していた事だ。私に迷いは無かった。「大丈夫。それなら俺がなんとかするから。一緒に頑張ろ