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にがうりの人 #11 (安堵と錯視)

 職場であるスーパーマーケットの斜向かいには「喫茶アラタ」がぽつねんと身を潜めるようにある。昔ながらの小さな店構えで、白髪で老眼鏡をかけたマスターがコポコポと音を立て、琥珀色の液体を注いでいる様子は妙に哀愁があって私はいたく気に入っていた。
 店内には窓際にカップルが一組いるだけである。私は一番奥の席でホットコーヒーをすすりながら榊を待っていた。そうして暫くの間、彼について考えていた。

 榊は半年前にアルバイトとして採用された。大学を卒業し大手出版社に就職したが、やりたい事が見つかりわずか半年で退社してしまったらしい。人見知りの私ですら気のおけない存在となる彼の人柄は職場でも遺憾なく発揮され、ムードメーカーの地位すら確立しているように思える。
 だからこそ私は逡巡していた。彼に打ち明けることで果たして私を惑わせる何かを払拭できるのか。その場の勢いで彼を呼び出してしまったものの、まだ私は二の足を踏んでいた。

 しばらくするとカランという乾いた音を鳴らして入り口のドアが開いた。榊が顔を覗かせ、マスターが顎を動かすと、彼は私に気づき近づいてきた。
「遅くなって悪いな。店長にこき使われちゃってさ」
 彼はダウンジャケットを脱ぐとアイスティーを注文し、いつものようにマルボロに火をつけた。
「で、何の相談なんだ?」
 笑顔の榊を見て私は大きく深呼吸した。
「そんなに深刻な話なのか?」榊は私の所作に苦笑した。
「実は僕、加藤成美さんとお付き合いしているんです」
「ああ、知っているよ」
 私と成美の関係は職場内で周知の事実であった。自ら公言したわけでもないが、隠したつもりもない。せまい人間関係の中では当然と言えば当然である。
「そんな事を俺に知らせるためにわざわざ呼び出したのか?」榊は再び苦笑した。
「そのことでちょっと」
 私は一瞬躊躇ったが、意を決して拙いながらも自分の気持ちを素直に語った。自身の事を他人に語ることなど皆無に等しかった私は内面を見られることに不慣れで口を開く度、顔面に熱を帯びるのを感じていた。榊は笑みを浮かべながら時折相槌を打って私の話を聞いている。
「要するに彼女がお前に対して何か隠し事があるんじゃないかって思っているのか」
 榊は直裁に言う。そう言われれば結局その通りのような気がした。私が再び顔を赤くしていると榊はふふふと息を漏らし、しばらく腕を組んで考え始めた。
「成美ちゃんとはたまに俺も話すけど、そんな感じには見えないけどな」
 私はその言葉を聞いて内心安堵した。それならそれで気のせいなのかもしれない。

続く

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