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にがうりの人 #8 (凪の心)

 何より私が彼女に一目を置いたのは、現況に対して愚痴をこぼさない事である。無論、私はその時の環境にずいぶんと慣れてきていたし、不満を口にしてもなんら糧にならないことは十分理解していた。
 私は彼女の価値観が好きだったのだ。
 私達は経済的に余裕が無くとも、なんとか毎日を楽しく過ごしていたのである。お互いに支えあっていたなどという安易で陳腐な言い回しはしたくないが、あながち否定も出来ない。

 幸せだったのではないか。

 後々、人生の端々でこの時期の事をそう思うことが多かったのも事実である。

 しかし彼女と過ごす時間の中で一つ気がかりなことがあった。それは彼女が時折無言で見せる悲しい表情である。彼女と共有する時間が多くなればなるほどその表情は際立つようになっていった。かといって恋愛の経験など皆無に等しかった私にはどうすべきなのか分からない。女性の機微を理解できるほど成熟していなかった。

 交際を始めてから数ヵ月後、彼女の家で夕食をとることとなった。普段夕食を共にする時はたいてい私のアパートであり、彼女は頑に自宅を解放する事を拒んでいた。しかし遂に私の強い懇願を彼女は渋々ながらも受け入れたのである。
 大学での授業が終わると私は土産のケーキを手に彼女の自宅へと向かった。事前に教えられたとおり歩を進めると思いのほか職場と近い事に気づかされた。しかしそれ以上に彼女が住むそのアパートに驚いた。
 それは木造の古いアパートで女性が住むにしてはお世辞にも綺麗とは言いがたい所だった。彼女が私を、いやもっと言えば客人という客人を拒む理由の一端がおそらくこれだろう。彼女に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
 なぜ強引に彼女の自宅へ押しかけるような真似をしてしまったのだろうか。後悔の念を抱えながら私は彼女の部屋の前で足を止め、かろうじて設置されている呼び鈴を押す。
「はい」
 聞き覚えのある無邪気な声が聞こえた。ドアが開き中から成美が顔を出す。その表情は想像したとおり、恥ずかしさや嬉しさを混ぜ合わせた複雑なものだった。
「汚いところだけど、入って」
 彼女ははにかみながら私を奥へと招き入れる。私は頷いて玄関に入ると、懐かしい香りが鼻をかすめた。どうやら彼女はカレーライスを作ったらしい。
 左手に申し訳程度の台所があり鍋がコトコトと音を立てている。さらに奥へ進むと六畳の一室にベッドが所狭しと横たわり、後は小さなテーブルとテレビが置いてある程度の質素な空間が広がっていた。しかし、アパートの外観とは裏腹に非常に掃除が行き届いて整っている。私はそんな事を考え、胸の奥が締め付けられた。

続く

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