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にがうりの人

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#長編小説

にがうりの人 #1
(静かな夜に)

にがうりの人 #1 (静かな夜に)

 私を見つけると彼らはまず好奇の眼差しを浴びせてくる。
 そして次に嬉々とした笑みをこぼす。
 私の前に現れる大半の人間が示す反応であった

 ゴルフセーターを着た恰幅の良い中年男性が例に漏れず私を見ると、憎たらしい笑みをこぼしヤニで黄ばんだ歯を見せた。
 彼は誰もが一度は名を聞く某有名大企業の会長である。だが、皮肉な事に彼の名前は知っていても顔と一致する人間はなかなかいない。経営者など所詮そんな

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にがうりの人 #60
(新しい未知)

にがうりの人 #60 (新しい未知)

 父はよく津田沼を評した。それは息子の担任としてではなく、一人の人間として接していると私には受け取れた。

「彼はバイタリティに富んでいる」

「若いのに非常に思慮深い男だ」

「教師にしておくのがもったいない」

 私にはそれがほめ言葉なのか判然としなかったが、ともかく父の嬉しそうに話す表情を見ていると自分も嬉しくなった。

✴︎

 それは私が翌年の春からイギリスへの単身留学を考えていた為、準

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にがうりの人 #62
(潰された情愛)

にがうりの人 #62 (潰された情愛)

 私は思い出していた。
 部屋に閉じこもり、暗闇に迷い込んでいた私がいまや海外という見知らぬ世界へと飛び込もうとしている。こんな大それた飛躍は引きこもっていた私にとって到底考えられないことであった。
 私は感慨深くなり俯いた。津田沼の横で父が笑う。
「お前には俺たち家族がいる。大丈夫だ」
 それは私の背中を押すには十分すぎる台詞だった。母は父の横で俯いている。
 両親の思いが私に伝わり、全身にエネ

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にがうりの人 #63
(無念の咆哮)

にがうりの人 #63 (無念の咆哮)

 穏やかに言ったつもりだった。しかし、受話器の奥からすすり泣く声が聞こえてくる。私は驚いて「もしもし」と様子をうかがった。やがて母は私の名を呼ぶと鼻声で言った。
「もうあなたは大丈夫だね」
 何の事か。私は不思議に思ったが口には出さない。そして母はいつもと変わらない快活な口調で言った。
「強く、生きていきなさい」
 心配してくれているのだな。私はそう思っていた。

✴︎

 しかし、翌日再び日本か

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にがうりの人 #64
(苛まれる空虚)

にがうりの人 #64 (苛まれる空虚)

 日本は既に夏真っ盛りで飛行機の窓からでもその日差しの強さを感じられる。数ヶ月ぶりの母国で感傷にひたる間もなく私は父の代わりとして空港まで迎えに来てくれた津田沼と顔を合わせた。彼は弱々しい笑顔をみせ「おかえり」とだけ口にした。

「大変だったな」
 自宅を失った父が泊まるホテルまで向かう車の中で津田沼は終始無言の私を気遣ってか、運転しながら前を向いたままで言った。大変などと言う言葉で片付けられない

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にがうりの人 #65
(落涙の痕跡)

にがうりの人 #65 (落涙の痕跡)

「どうして、どうして母さんが」
 言葉がうまく発せられない。それでも知らなければならないと思った。叫ばなければならないと思った。
「分からない。でもな、父さんにとってもうそんな事はどうでもいいんだ。ただ、母さんを助けてやれなかった。それだけの事なんだ」
 そう言って再び私から顔を反らし肩を震わせた。

 その通りかもしれない。母がどうして自ら命を絶ったのか、それを知っても新たに悲しむ事になるのか、

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にがうりの人 #66
(矛先と矢面)

にがうりの人 #66 (矛先と矢面)

 母の死から一ヶ月が経った。私達父子は自らに空いた大きな穴を埋める事に必死だった。それが出来ない事は分かっていたが、何かに没頭しないと立っていられなかったのだ。だから父は相変わらず仕事に、私は狂ったように勉学に勤しんだ。

 その日も父は帰宅せず、私は既に夕食を済ませ机に向かっていた。集中していたせいか、ふと時計を見ると既に二十三時を過ぎている。そこで電話が静寂を断ち切るようにけたたましく鳴った。

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にがうりの人 #68
(鷹揚なる勇断)

にがうりの人 #68 (鷹揚なる勇断)

 普段はマスコミや野次馬がひっきりなしに押し寄せてくるため、津田沼が私の窓口となって来客はほとんど対応してくれていた。だがその男は直接私を訪ねて来た。普通であれば柔和な表情は親近感を覚えるだろうが、警戒心にとらわれていた私には疑念しかなかった。男は父の弁護士だと言う。

「お父さんの事で話したい事があるんです」

 父の何を弁護するというのか。私は父の罪に情状酌量の余地など無いように思えた。もちろ

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にがうりの人 #71
(揺さぶられた臓物)

にがうりの人 #71 (揺さぶられた臓物)

 そこにいるのは土色をした父だった。私はその場に崩れる。もはや涙も出なかった。死してなお悲しげな表情の父は何を思いながら最期を迎えたのだろうか。
 どうして。なぜ。
 憤りがやがて悲しみに変わり、再びやりきれない怒りに変わる。あまりの理不尽な現実は私の感覚を麻痺させ、精神は崩壊寸前であらゆる考えや感情が頭の中に溢れるが整理がつかない。
「これはなんなんですか」
 既に私は度を失っていた。自分でも驚

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にがうりの人 #72
(終焉の狼煙)

にがうりの人 #72 (終焉の狼煙)

 軟弱そうな男は忙しなく眼球を動かして私の話を聞いていた。
「以上です」
 私が舞台の幕を閉じるようにそう呟くと急に現実に引き戻されたように男は目を丸くする。
「その、その後は、ど、どうなったんです?」
「今回のお取引はこれで終わりです」
 私の言葉にそれまで肩をすぼめていた男が初めて身を乗り出した。
「ちょ、ちょっと待ってください。け、結末が知りたいんですよ。も、も、物語にはオ、オチが必要ですし

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にがうりの人 #73
(狂気の空の下)

にがうりの人 #73 (狂気の空の下)

 何十年かぶりの鎌倉の町並みはさほど変わっていなかった。育ったこの土地を訪れてから私は全てを終わりにしようと決めていたのだ。
 いつからかこの街に暖かいイメージはない。この日も気温は低く、朝の天気予報ではキャスターがこの冬一番の寒さと威張るように言っていた。駅前は平日とその寒さのせいもあってか人気はまばらである。
 空はむやみに高く、青い。
 ロータリーを抜け、商店街へ入ると幾分か人が増える。両脇

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にがうりの人 #74
(思念は虚構へ)

にがうりの人 #74 (思念は虚構へ)

 私は無性に悲しくなった。考えてみれば、過去を売るという商売を始めて幸せな話が取引の対象となる事はほとんどなかった。
 人間は他人の不幸が好きだ。他人の不幸と相対的に自分の幸せを決める。それが道徳として善なのか悪なのかはどうでもいい。ただ、醜い過去を捨てる事により幸せだった頃が今になって際立った事が、私の心を刺した。

 歩を進めるといよいよ私は苦しくなる。母が死に、燃え落ちた家に向かった時もこの

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にがうりの人 #75
(告白の的)

にがうりの人 #75 (告白の的)

「何か用?」

 女は相変わらず愛想の無い目つきで私を見上げた。いつもどおり深夜のファミリーレストランである。身辺を整理し、この日を迎えた私は迷う事無くこの高飛車なキャバクラ嬢の元へ足を向けたのだ。女を探すため何軒のファミリーレストランを廻るのだろうかと考えていたが、まさか一軒目で見つかるとはさすがに驚いた。
 最後の最後についているなんて自分らしいなと思い、少し苦笑した。女はまだ怪訝な表情で私を

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にがうりの人 #76
(それからの塗炭)

にがうりの人 #76 (それからの塗炭)

 高峰弁護士が自らの命を絶ち、私は再び生きる気力をなくしていた。信頼できる人物がことごとく私の前から消えて行く。

 これはどういう事なのか。

 既に迷いというレベルではなく、私の精神はいよいよ混沌とした。
 自分の人生は周りを駄目にし、それにより私自身を駄目にする。そうやって私の中では負の思考が螺旋状に連鎖し、どんどん地の底へと私を追い詰めた。どうすることもできなくなり宗教に救いを求めた事もあ

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