マガジンのカバー画像

体験談2

45
経験をシェアして被害を最小限に&必要な支援に繋がれば。
運営しているクリエイター

#震災

2011年3月11日、あの日僕は東京で就活をしていた

2011年3月11日、あの日僕は東京で就活をしていた

「なんか面白いこと起きないかな」

そんなことを思いながら次の企業説明会が行われる最寄駅の近くのココイチでカレーを食べていた。

2011年3月11日12時過ぎ。

この時に食べていたカレーを最後に、24時間以上まともなご飯に有り付けないことをこの時の僕は知らない。

企業説明会の日程がびっしりと書かれた手帳を眺めながら、冒頭の言葉を店内の誰にも聞こえないようにボソッとため息混じりに口に出す。

もっとみる
3.11の記憶

3.11の記憶

私個人は被災者ではないし福島出身でも無いが、東日本大震災で色々と変化があったのは覚えている。特に、震災以後に得た体験や知識によって行動基準が随分と変わった。
意味があるかどうかは微妙だが、覚えているうちに当時の事を書き留めておこうと思う。

震災当日は東京の職場で普通に働いていた。
ゆれが始まってからもノンキに仕事を続けていたり、こんな動画を撮っていたりと、全く危機感が無かった。一応、状況次第で避

もっとみる
災害の記憶は風化するもの、という前提

災害の記憶は風化するもの、という前提

3月11日は、東日本大震災が起こった日。今は多くの人々があの日を思い起こし、また2011年3月11日当日のことをハッキリと覚えている人も多いでしょう。7年前の3月10日であれば記憶も曖昧になっているところ、あの地震と津波の衝撃は今でも思い出すと心が揺れ動きます。

そのときに感情を持つ人々の一次情報7年前の3月10日ではなく、73年前の1945年3月10日は何が起こった日か知っていますか?この日は

もっとみる
福島が《FUKUSHIMA》になってから

福島が《FUKUSHIMA》になってから

私は、ある3月の日曜日に、神奈川県相模原市の大きな病院で生まれました。母の実家がそこにあったので。けれど、産声をあげてひと月も経たないうちに、私は「福島の子」になりました。

福島県福島市。福島県の真ん中の一番上にあって、人口は30万人にギリギリ満たない街です。県庁所在地なのにあの郡山市にはちょっと気後れしちゃう、かわいい街です。小学校の社会科の授業では、「福島市は猫の形をしているね」と教わります

もっとみる

阪神淡路大震災を振り返って(3)

22年前。
色々忘れる前に、ついに書いておこうと思う。
続きの続き(3) *(2)はこちら 

ウィキペディアではこう記されている。 
阪神淡路大震災 

避難所で衣服が配布されると聞いた。
混雑を避ける為、一家で一人が取りに行く。

多くの人が集まったが、
衣服を持って戻る人は少なかった。
衣服を持って来た人が
不思議そうな表情をしている。

それは古着だった。
いや、ボロだった。

「ありがと

もっとみる

阪神淡路大震災を振り返って(2)

22年前。
色々忘れる前に、ついに書いておこうと思う。
続き(2) *(1)はこちら 

当時、被災地ではこの2曲ばかりが流れていた。
・美し都(うましみやこ) 平松愛理 
・がんばりましょう SMAP 

近所に小さい食料品店があった。
我に返るとお腹が空いたのか、
食料を確保したい無事だった人達が
そのお店に殺到した。

菓子パンは取り合いになったが、
支払いのレジには皆並んだ。
後に海外で話

もっとみる

震災の記憶

大雪の朝。車でいつもの道を走っていると、道の両側に連なる一面灰色がかった景色に、震災のときの記憶が重なった。全く違う場所だし、もちろん瓦礫なんてひとつもないのだが、あのとき目の当たりにし脳裏に焼き付いた、瓦礫の街並みの映像が浮かぶ。こういうことが時々起こる。震災の記憶以外にも、9.11のニュース映像から、交通事故の現場、漫画に出てくる残虐な場面が想起されることもある。これはなんという現象なのだろう

もっとみる

阪神淡路大震災を振り返って(4)

22年前。
色々忘れる前に、ついに書いておこうと思う。
いったん最後(4) *(3)はこちら 

震災20年後の年にヤフーが作ったページ。
「阪神・淡路大震災から20年。震災から学び、未来に備える - Yahoo! JAPAN」

震災後1年くらいは、
ラジオ・軍手・懐中電灯・地図を持ち歩いていた。
今なら軍手以外、スマホ1つで済む。

震災後1年くらいに、
地元の先輩の多くが20代前半で結

もっとみる

阪神淡路大震災を振り返って(1)

22年前。
色々忘れる前に、ついに書いておこうと思う。

2011年の甲子園で、創志学園1年生、
野山主将の選手宣誓に嗚咽した。
(全文はこちら)

正直、震災の話を平常心で語るのに3年かかった。

当時はまだ、ネットも携帯も
若者のライフスタイルには
広く組み込まれていなかった。

当日、私は爆睡していた。
1度目の揺れは夢の中、
2度目の揺れで目が覚めた。

起き上がろうとしたが、動けない。

もっとみる
【特集】「熊本地震」被災日記(3) 避難所スタッフも皆「被災者」

【特集】「熊本地震」被災日記(3) 避難所スタッフも皆「被災者」



被災生活5日目、問題も多様に

自分が”被災者”になり、避難所で生活することなど、ほぼ全員が初めてのことだ。

だから避難所においてはさまざまなトラブルが起こった。

私が最初に訪れた小学校では支援物資の配布についてもめていた。

校長先生、教頭先生、町内会長、PTA会長、ボランティアスタッフが集まり、届けられた支援物資をどのように配分するか話し合っていた。

「……では、このように配分したい

もっとみる