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「理由」を求める呪縛には注意しないといけない。
我々はいつから物事に「理由」を求めるようになったのだろうか?
近代が絶対的な答えを求めようとした結果だろうか?
生きる理由、働く理由、趣味に励む理由、
勉強をする理由、人を好きになる理由、
すべてに理由を求めたくなってしまう。
理由がないと、自分を信じれなくなったのかもしれない。
理由がないと、動けない身体になってしまったのかもしれない。
しかし、もし自分が心から惹かれるものがあったと
頭で考える「好き」と、身体が欲してる「衝動」は違う。
昨日は7年前からお付き合いをさせてもらっているSNS運用会社の社長とランチに行ってました。
彼は50万人のフォロワーがいるインフルエンサーなので、今回SNSの相談をしてきました。
実は裏でYouTubeを数ヶ月更新していまして、ずっと継続をしています。ですが、なかなか再生回数が伸びないので、いま路線変更をしようと思っている段階です。
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全く関係のない業界に挑戦するたびに「自分はなにもで
本人が思ってるよりも、「親という存在」が足枷になっていることがある。
何かをはじめるときに本人が思ってるよりも、「親という存在」が足枷になっていることが多い。
親の価値観によって人生の選択を決めてる人は、自分で物事を「疑って、考えて、選ぶ」ということがない。
生き方も働き方も、全てが親の生き方に沿ったものだから、なにひとつ自分で物事を選択することがない。
そういう人は、自分の手で人生を動かすことがないから、「生きる」という感覚が麻痺しがち。
なんとなく生きて
問いを置き去りにした、「答え探し」という病
日本教育のせいか多くの人がどこかで答えを探している。
その都度提示される目の前を問題を、ひたすらに応えてきただけだから、社会にでてからも答えが欲しくてたまらないのかもしれない。
例えば、ビジネスでよくあるのが「どうすればいいですか?」という質問。
これは実はかなり危険で、答えを求める質問になってしまっている。
思考が回っていれば、「こう思うのですが、どう思いますか?」という質問になるはずだ