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偽善と偽悪。偽悪のススメ

モノゴトの善悪は生まれる場所や住む場所が変われば逆転する。

戦争であれば人殺しも良しとされるし、民主主義であれば悪いことも多数決によって良しとされる。

善悪は前提によって180度変わる。

それにも関わらず多くの人は「良いこと」を「良い」として、その枠からはみ出ようとしない。特に日本人は「良い」という呪縛に汚染され過ぎている気がする。

このような状況は、各々が「良いこと」を自らの意思で選んでるというよりは、何かしらの脅しを受けての結果だと思っている。

これらの人は、拳銃でも突きつけられてるのか?といわんばかりに、とにかくキレイゴトが好きで、「みんなを幸せに」 「周りを笑顔にしたい」とかをよく口にだす。

もちろん素晴らしいことではあるけど、それについては誰でも思うことではあるから、どこか薄っぺらさを感じてしまう。

なぜなら、世の中はそんなにシンプルではないからだ。人はいろんな欲望が蠢いている、美しさと醜さが相まったカオスの中に生きている。

だから、この世界でキレイゴトは伝わらない。

大事なことは、善か悪か?ではない、冒頭でも伝えた通りこの世に善と悪は存在しないからだ。

あるとすれば、偽善と偽悪だけ。

そう考えると、大事なことは、偽善と偽悪の二元論的な評価基準を飛び越えて、エネルギーが循環できてるのか?という問いに帰結する。

別の角度から言い換えると、脅しの偽善からいかにして逃れるか?ということがポイントになってくる。

その為に、まずは「良い人」が「良い」という妄信から脱却しないといけない。

良い人は、背景に埋もれてしまって自分の存在を際立たせることができないからだ。

恋愛でも良い人はモテないと言われるが、これも同じで、良い人は素晴らしいけど、やっぱり棘がなくてつまらない。

「良い人」が「良い」という妄信には、リアルを直視しない現実逃避が含まれているし、長いものに巻かれることで安心感を得ようという打算がどこかにあったりする。

良い人になって物事を動かすことはできるのか?

いや、できないだろう。

周りと足並みを揃えて生きていきたいならそれでも良いと思うが、それではいつまで経っても生きてる実感は得れないと思う。

生きてる実感を取り戻さないと、エネルギーなど湧くはずがない。

一方で、悪い人は人を惹きつけて、人を魅了するだろう。

もちろん多少の迷惑をかけたり、厄介ごとに人を巻き込んだりするかもしれないけど、物事を動かす偽悪は世の中から必要とされる。

そこには、人がどこかで潜在的に感じてるリアルが垣間みえる瞬間があるからではないだろうか。

リスクを取ったり、理不尽に立ち向かったり、やっかいごとを引き受けるからこそ、そこにエネルギーが宿るようになる。

偽悪者にしか物事は動かせない。

もちろん本物の悪者ではないことが前提だけど、偽悪者は必ず必要。

脅しの偽善から抜け出せない、良い人が多いからこそ、意識して偽悪者を目指すことが必要なのではないだろうか?

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