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問いを置き去りにした、「答え探し」という病

日本教育のせいか多くの人がどこかで答えを探している。


その都度提示される目の前を問題を、ひたすらに応えてきただけだから、社会にでてからも答えが欲しくてたまらないのかもしれない。


例えば、ビジネスでよくあるのが「どうすればいいですか?」という質問。


これは実はかなり危険で、答えを求める質問になってしまっている。


思考が回っていれば、「こう思うのですが、どう思いますか?」という質問になるはずだから。


多くの人は、「あらかじめ答えが用意されてる」と錯覚してるように思える。


無意識レベルまで染み込んだこの思考は、理性的な判断が介入する前に、反射的に自動応答して答えを求めはじめる。


「早く何かに縋らせてくれと、、。」


でも、いつも疑問に思うのが、答えを欲しがる人は「教えてもらった答え」をいったいどうするつもりなのか。


「答え」の対義語は「問い」であり、「答え」と「問い」はセットということをわかっていないのかもしれない。


「答え」が単独で存在してると勘違いをして、「問い」の数だけ「答え」があることを知らないのかもしれない。


そもそも、これまで「答え」を用意されてきたから、「問い」を立てることを忘れてるのかもしれない。


でも、自分の問いがなければ、「問い」を立てた側に隷従するしかなくなるのではないだろうか。


これは答えを間違うことの脅迫のようにも思える。


なぜなら、「答え」は「問い」を立てた側が決めるからである。


いつも「問い」は「答え」に先立つ。


そうなれば、答えに対して間違うことは許されなくなる。


でも、もし目の前にABCの問いを提示されたなら、次は自分でDEFの問いを作っても良いはず。


そして、そのDEFの問いに対して自分なりの答えを示してもいいはず。


いや、そうするべきである。


「みんなはそう思うかもしれないけど、自分はこう思う。」と、生きていこう。

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