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【4】 母の治療に付き添うことに疲れ切った娘の私。限界が近づいていました

母の治療は、苦しい紆余曲折を経て「手術はしない」方向で話は進み、途中、行きつ戻りつした後に、最終的に化学療法の治療を選択しました。

放射線治療と抗がん剤治療の同時スタートです。
入院している母のもとに通い、話し相手になったり、飲み物や食べ物を補充したり、洗濯したパジャマや下着を補充したり。大したことはしていないのに、たった2~3時間過ごすだけで、全身が泥のように重たくなる日々が続きました。

「娘を産んでよかった」
 母が口癖のように言います。

娘の私が何くれとなく気をまわし、母の快適さを少しでも維持しようとする諸々の行動が助かるのでしょう。
私だって、母を助けたいから、助けているのです。
けれども、このころからもやもやとした割り切れない気持ちが湧くようになりました。

「娘を産んでよかった」というのは、要するに「娘は便利で役に立つ」という意味なのだ。それって、どういうことなのだろう。

昭和十年代生まれの母曰く、男の人は(こういう場面で)役に立たない。女と男は、できることがまったく違う。だからといって、病院の女性看護師になんでも頼めるかと言ったら、遠慮するからそれはできない。「自分が生んだ娘」であれば、そこに遠慮はいらない……。

母は気づいていないようでしたが、私の夫が、いつも母の病状について調べたり、考えたりして、時間を割き、私をサポートしてくれている。
母自身の夫や息子には「仕事があるから」と言って「何もしてくれるな」とばかりの対応をするが、私を支える「私の夫=男」がしていることは、どう解釈するつもりなのか。

そして父や兄を「役に立たない人」にしたのは、結局、母なのではないか。

半年前の、母の乳がんの闘病に付き添っていたときから、少しずつ溜まってきていた、割り切れない感情。
それらが頭の中で、発酵しかけていました。


しかしそんな呪詛を訴えている場合ではありません。
日を追うにつれ、抗がん剤の副作用によって、母の味覚はおかしくなり、ベッドから動かなくなってゆきました。同時進行でおこなっていた放射線治療では、喉が焼けただれてしまったのか、唾さえ飲み込めずにトレーに吐き出すという状況。

日に日にやせ細ってゆく母。
母の体調の良し悪しや発言の一つひとつに、私は気持ちを上げ下げされ、いちいち共鳴しては、苦しくなっていきました。
 
母のカラダを心配する気持ちと、母に対して抱くもやもやとした気持ち。
私の心身は、今、まずい状況にある。

けれども「母が待っている、今日も行かなければ」という義務感から、休むことができないでいる……。

母が、言います。
「完全に、親子の役割が逆転した」
母曰く、母と娘が入れ替わった。自分は、もうお手上げ状態であり、何もできない。誰かの助けなしには、生きられないと。

「この娘が、私のお母さんです」
世間話に付き合ってくれる看護師さんに向かって、私のことを「お母さん」と言ってくる母。

「娘の私」はそう言われるたびに、しっかりしなくてはと、自分を追い込んでいきました。
一方でこんな不安ももたげます。
私が気をまわし、サポートし続けることで、実は「母の自信」を奪い、逆に弱らせてしまう手伝いをしているのではないか……。

(いいのかな、これで……)
手伝う、助ける、サポートする。
イヤ、本人の力に任せる。
一体、どこまで関わり、どこからは手放すのか。
そのボーダーを決めることが、40年以上も生きているのに下手くそなのでした。

そんな中、人生最大のピンチが迫っていました。

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