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堀江宗正編 『宗教と社会の戦後史』 : 「本来、 わが宗門は」 という 自己正当化

書評:堀江宗正編『宗教と社会の戦後史』(東京大学出版会)

本書の中で、私が最も共感したのは、「宗教宗派の自己正当化」問題に言及した部分である。

『(※ 1979年、北米のプリンストンで開催された第3回世界宗教者平和会議の席上、当時全日本仏教会理事長であった曹洞宗宗務総長町田宗夫が「日本の部落問題は今はない」と発言し、さらにこれを報告書から削除させたことが問題視されたのが切っ掛けで、1981年に結成された「同和問題に取り組む宗教教団連帯会議」である、略称)同宗連の結成を受け、各仏教教団は同和問題対策を担う部局を設置し、教団によって歴史的になされてきた差別問題(中略)に取り組み始めた。それは、戦後憲法によって初めて明確に規定された「民主主義」と、「基本的人権の尊重」という理念に歩調を合わせる形でなされてきた。しかしこのことが意味するのは、戦後憲法が「民主的」であり「基本的人権の尊重」を謳っているからこそ、ほとんどの仏教教団は教団を挙げてまで取り組んでいるということではないだろうか。事実、いずれの教団も敗戦以前においては差別問題を教団全体で共有すべき問題としては意識しておらず、放置していたのである。にもかかわらず今日の仏教教団は、部落差別問題に取り組み、人権意識の向上をはかることは、仏教本来のあり方に沿うものであると主張しているのだ。真宗教団連合、浄土宗、曹洞宗、臨済宗妙心寺派、天台宗の各公式ウェブサイトには、いずれも人権や同和問題の啓発を目的としたページが存在し、例えば「すべての国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」と憲法を参照しつつ、「人と人とのまじわりを深めて、共に部落解放=人間解放の仏道を歩もうではありませんか」と述べている。しかし、どの教団においても欠けているように見えるのは、憲法における「基本的人権の尊重」という近代的理念が、なぜ仏教の理念と繋がりうるのかという原理的な問いである。(※ かつて、戦前戦中において語られた)「近代の超克」することさえも可能であるとされる仏教が、なぜ近代的な理念である人権に拘泥する必要があるのか。このような原理的問いが欠如したまま、部落差別問題や人権問題への取り組みが行われているという状況自体が、結局は仏教教団のナルシシズムを傷つけないことが目的であることを示しているように見える。』(P254〜256、川村覚文)

平たく言えば、仏教にかぎらず、キリスト教やイスラム教などでも典型的に示されるとおり、たいがいの宗教宗派というものは、多かれ少なかれ「虐殺的暴力」に加担した「負の歴史的事実」を持ってながら、後になれば、それを「一時的な状況的過誤」であって「本質的な問題」ではないと、自己正当化して来た、ということである。
「本来、わが宗門は」非暴力であり、寛容であり、弱者の味方であり、非差別である、などと、「歴史的事実」をあっさりと放擲して、「教義上」「タテマエ上」の「言葉」の方こそが、「本質」であり「本来の姿」であると、臆面もなく主張するのだ。

本来であれば「なぜ我々は、教えに反して、このような誤りを犯してしまったのだろうか?」「それは、我々個々の信仰が弱かったためなのだろうか? それとも、そもそもこの信仰は、弱い私たちを強くする(救う)力を持たない、ということを意味するのだろうか?」と問わなくてはならない。

なぜなら、もしも、その信仰が「弱い人間を真に強くする(仏や菩薩にする)力を持たない、単なる絵空事(フィクション)」なのだとしたら、そんな信仰を持つ(幻想に依存する)人たちは、いつまで経っても「反省」や「改心」をすることが出来ないだろうし、何度でも同じ誤りを繰り返すことになるだろうからである。

この問題は、本書でも指摘されているとおり、「オウム真理教」問題に対する、仏教各派の言い分でも同じである。彼らは「オウム真理教のようなものは、仏教の教えとは縁も所縁もないものだ」と、「無縁」性をアピールしたがった。
しかし、オウム真理教の教説の一部は、確実に仏教の教説に由来するものであり、決して無関係ではないのだから、仏教各派が本来採るべきだったのは、「私たちは無関係だ」という保身的なそれではなく、「他人事と考えず、他山の石としなければならない」というコミット的態度だったのではないだろうか。

だが、そうした謙虚な反省のできる宗派教派はほぼ見られず、多くの宗派教派は、いつでも「本来、わが宗門は」こんなに素晴らしいのだという「自己正当化」にばかり腐心するのである。

私は、主としてキリスト教に注目し、批判や指摘をしてきた者だが、こうした問題は、一般信者に止まらず、むしろ指導的な立場にある少なからぬ教派理論家(神学者)たちこそが、このような「自己正当化」に貢献しているいう現実を、ウンザリするほど見てきた。

しかし、いかにウンザリさせられようと、「宗教と社会」が、切っても切れない関係にある以上、これからも私たちは、捲まず撓まず「宗教各派の自己正当化」の問題に注目し、検証・批判していかなければならないのである。

初出:2019年7月12日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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