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濱口竜介監督 『悪は存在しない』 : 「本作にも意味はない」

映画評:濱口竜介監督『悪は存在しない』2023年)

本編を見る前の人も、見終わった人も、まず気になるのは、本作のタイトルである『悪は存在しない』であり、その意味するところであろう。

だが、この言葉は、私にとっては何の不思議も疑問もないもの、当たり前に自明なものでしかない。なぜなら、私は日頃から「この世界には、本当は善も悪もない」と言っているし、そう「書いている」からだ。

(オープニングとエンディングに登場する「森の仰角移動カット」。これに石橋英子の音楽が重なって、不穏な雰囲気を漂わせる)

一一で、その意味するところは、

「宇宙規模で考えるならば、善も悪もないというのは明白だろう。善悪とは、人間という生物にとって、都合が良いことと悪いことを指しているに過ぎず、人間という主観的な価値判断主体なくして、客観的なものとしての善悪基準など、あろうはずがない。なにしろ、長らく善悪判断の絶対的根拠とされてきた〈神〉が存在しないというのも、唯一それを信じることのできた人類にとってさえ、もはや、ほとんど自明なこととなったからだ」

というようなことである。
また、言い換えれば、

「善悪とは、人類という生物が、他の生物との生存競争を生き残るために構築してきた、進化論的な幻想であり、自分たちに都合の良い価値を〈善〉と呼び、不都合な価値を〈悪〉と呼んでいるだけのもの。だから、他の生物には全く意味をなさない、人類の勝手な押しつけでしかなく、言うなれば〈ジャイアンの論理〉でしかない。したがって、何物にも偏しない、公正な価値基準としての善悪などというものは存在しない。人を殺そうと、子供を強姦しようと、それは人間にとっては好ましくないだけであって、他のすべての生物にとっては、どうでもいいことでしかない。いっそ、それで人類が自滅してくれれば、そのような行いは、他のすべての地球上の生物にとっては、むしろ〈善行〉と呼んでさえ良いと、そう言われかねない程度のものなのである」

というようなことにもなるのである。

したがって、本作『悪は存在しない』を見た上で、私のここまでの説明を読んだ人なら、「ああ、あの映画のタイトルは、そういう意味だったのか」と、至極簡単に納得しでくださるだろう。その意味では、本作のタイトルが暗示する、本作の「意味内容」などというものは、実に「凡庸」であり、「つまらない」ものだと、そう断じても良いものなのだ。

だが、だからこそ、本作の価値は「何が語られているのか」という点(意味内容)には「無い」と断じても良いだろう。
そうではなく、本作が「面白い」としたら、それは、「悪は存在しないとしたら、当然、善も存在しないわけで、私たちの世界が、そんな善も悪もない無意味なもの(人間が付与したような意味は、すべてフィクション)にすぎない」と、そうしたことを実感させ、私たちの「生」が、いかに無根拠なものであるのかを実感させてくれる、という点にあるのではないか。当然の「不安」を感じさせてくれるところにこそ、その価値があるのではないだろうか。

(『これは君の話になる一一』しかない)

私たちは、何ごとであれ、それにはそれなりの「意味がある」と思っていられるから、日々安心して生きていられる。
だが、実のところ、そんなものなど存在しないのである。むしろ、その事実を自覚していないからこそ、呑気に生きていられるわけで、これは頭で(哲学的・思弁的に)「(善)悪は存在しない」ということを「理解」していることとは、別の話なのだ。
そのように「理解」している人も、その言葉が意味するところを「実感」しているわけではない。そんなものを、いちいち「実感」していたら、人間は生きていられない(発狂してしまう)。

例えば、今この瞬間、あなたの心臓が止まったら?
今、子供の通う学校に殺人鬼が乱入して、あなたの子供を殺していたら?
今、直下型の地震が来て、家屋敷はもちろん、家族全員を失ったら?

そんなことを本気で心配をしていたら、正気でいられないというのは明らかであり、だからこそ「正気の人間は、理性的認識の一部を、自動的に、常に、麻痺させて生きている」のである。
「明日は必ず来る」とか「子供は自分より後で死ぬ」とか、そんな保証などどこにもないのに、ひとまず「そんなことはないだろう」と、そう信じられるように出来ているのだ。
そして、同じ理由で、「この世には、善悪がある」と、そう信じこんでもいるのである。

だが、客観的にも、本質的にも、この世界には「善も悪も存在しない」。当然「悪は存在しない」。

つまり、そのようにして私たちが、自分自身に隠蔽し、抑圧している「不安」、「世界の不確実さ」に由来する「不安」を描いたのが、本作『悪は存在しない』であると、私はそう理解した。

また言うまでもなく、「そう理解した」とは、「私がそう意味づけた」ということであって、濱口竜介監督が「そういうつもりで作った」という意味での「意図」と同じではない。
だがまた、同じではないから「間違っている」ということではない。なぜなら、最終的には、この世界には「正誤など無い」からである。

だから、監督が「作品に秘めたつもりの意図」というようなものは、作品の中には「存在しない」。監督が、そう思っているだけで、それが作品に結実しているという保証など、どこにも存在しない。

(本作は、第80回べネチア国際映画祭銀獅子賞を受賞した。
左が主演の大美賀均、右が濱口竜介監督)

私がよく例え話とする実例だと「ある監督が、本作のテーマは愛です」と言ったからといって、また、そのつもりで作ったからといって、その作品が「愛を語った作品になっている」という保証など、どこにもない。
「つもり」で良いだけなら、どんな作品でも、どうとでも言える。つまり「『桃太郎』は、愛を語った作品です」「『天才バカボン』は、愛を語った作品です」。「私の撮った映画は、史上最高の傑作です」。

だから「監督がその作品に込めた意味」などというものを忖度するのは、実際のところ、馬鹿のすることでしかなく、いま流行りの「考察」とやらで、「最終回で明かされる、物語の真相」を予め「当てた」から、「すごい」とか「偉い」とか言って喜んでいるような手合いは、度しがたい馬鹿でしかないのである。

しかし、こう書くと、「いや、あなただって、いつも『この作品で語られているのは、こういうことだ』とか言っているじゃないか」と、そう反論する人もいるだろう。
だがそれは、私の言っていることを、理解していないだけである。

私が、そういう「解釈」を示すのは、それが唯一の「正解」だなどと思って、そうしているのではなく、「無限に存在する、解釈の中で、よりマシな解答であろう」ということなのだ。
つまり、答(解釈)は無限にあるのだが、しかし、そうしたすべての解釈が「等価=平等」なのかと言えば、そんなことはなく、私の解釈の方が、たいがいの解釈よりも優れており、それは時に「監督が作品に、込めたつもりの意味」つまり「監督自身にとっての作品解釈」よりも「意味深いもの」だということなのである。
だから、仮に、私の「解釈」が、「後で監督の開示した回答(制作意図)」とは違っていても、私はそれを恥じないばかりか、逆に、監督に対して「その程度のことしか考えていなかったのか、頭悪いなあ。まあ、それでも作品の方は、監督自身ほど薄っぺらにはなっていなかったのだから、結果オーライだ。大切なのは、監督の意図ではなく、作品の出来なんだからね」ということにしかならないのだ。

そんなわけで、本作『悪は存在しない』の魅力とは、私たちが日々抑圧している「不安」を、描いて見せたところにある。
「悪は存在しない」とは、言い換えれば「善も存在しない」ということであり、この世界には「何の保証もない」という事実を意味しており、そんな「意味の宙吊り状態」における「不安」を感じさせてくれるのが、本作であり、本作の魅力なのである。

(花が一人で森の中を通って下校した際には、学校へ車で迎えに行った巧は、それを追いかけていって、途中からは一緒に帰ることも多かった)

 ○ ○ ○

本作の場合、上に書いたような「世界の無根拠性」ということを描いているので、最後まで見ても、腑に落ちるような「回答」は与えられない。
むしろ、最後の最後で「謎」が提示される。

「なぜ、この人は、あんなことをしたのか?」という「謎」なのだが、私のここまでの議論につき合ってくれた人なら、その「正解」は明らかだろう。それは「正解は存在しない」ということである。

つまり、彼がどうして、あんなことをやったのかというのは、彼にしかわからないのは当然のことだし、もしかすると彼自身にもわかっていないのかもしれない。その蓋然性は、決して低くはないのだ。
いや、たぶん彼自身は、自分の行動を正当化する「理屈(解釈)」を持っているつもりなのだろう。だが、それが本当にそうなのかという保証はどこにもない。なにしろ人は「自分を偽り、それを信じて行動する」ことなど、ザラにあるのであり、この場合そうではなかった(例外だ)などとは、誰にも、無論、当人にも、確言するはできないからである。

したがって以下では、本作のWikipediaから、「ストーリー」を、最後まで紹介しておこう。これは「ネタバレ」ではないから、安心していただこう。

『山奥の小さな集落・水挽町(みずびきちょう)で暮らす男・巧と、その一人娘・花。集落の人々は美しい森と澄んだ雪解け水に支えられて静かな暮らしを守ってきた。ある日、そこへ東京で芸能事務所を本業とする企業・プレイモードからグランピングの設置計画が持ち込まれる。企業はこの計画は多くの観光客を呼び込んで集落は大いに潤うはずだと説く。しかしそこに置かれる浄化槽は、人々が誇りとする自然水を汚染し、宿泊客による山火事の危険も懸念される。そしてこれはコロナ助成金目当てのずさんな計画らしい。人々はざわめき始める。

住民説明会へやってきた担当者・高橋と黛に、集落の人々は理を尽くして反論する。この集落の住民の多くは元々入植者と都会からの移住者であり、ここへ新たに加わりたいときちんと考えた計画なら反対する理由は何もない。しかしその前に、この土地の人にとって自然水がどんな意味を持つのか、そこで暮らすことがどんな責任を負うことなのか、どうか一度よく考えてほしいと訴える。高橋らは「地元の人は決して愚かではない」と態度を改め、計画のいい加減さに気づくようになる。しかし計画を立てた企業側は「助成金の申請期限が迫り、ガス抜きの説明会が済んだ以上、予定どおり設置を進めればよい」と方針を曲げない。板ばさみとなった高橋らは、集落から信頼を得ているらしい巧に協力を仰ごうと考える。

高橋と黛は再び集落を訪ねる日、車内で自分たちが芸能事務所に勤めることになったいきさつや、本業と無関係な今回の事業を担当させられていることへの愚痴、今後の身の振り方などを語り合う。高橋らは巧に施設管理人を打診するなど希望を伝えるが、はっきりした返事を巧はせず、なりゆきで薪割りや食事を共にしたり、巧が頼まれているうどん屋のための水汲みを手伝う。その後、いつものように花の学童保育からの迎えを失念していた巧は、高橋らとともに迎えにゆく車内で、建設予定地は鹿の通り道で、施設ができれば鹿はどこへ行けばよいのかとつぶやく。巧から鹿は手負いでもなければ人を襲わないと聞いていた高橋らは、鹿は勝手にどこかに行くだろうから問題ないのではと答える。

迎えに着いた巧らは、花が行方不明になったと知る。集落の人々が総出で花を捜索した末、巧と高橋は森の中の開けた草原で、傷を負った鹿と向かい合っている花を発見する。鹿に目を奪われている高橋を巧は突き飛ばし、地面にねじ伏せ絞め落とす。巧はその後、倒れている花のそばに駆け寄り彼女を抱えて草原を後にする。高橋や花の生死、施設計画のその後について何も明らかにされないまま物語は幕を閉じる。』

(Wikipedia「悪な存在しない」

本作を、ごく薄っぺらに、表面的に理解するならば、「自然を愛する善良な地元民」と「金儲けのことしか考えていない観光開発業者」の葛藤物語だと言えるだろう。特に、業者による「地元住民への説明会」までは、そんな印象そのままの展開である。

ところが、その説明会に来た業者側の二人である「高橋」が、説明会で地元住民から厳しい追及を受け、憮然としながらもその批判に耐えて会社に帰ったあと、「なんで俺があんなことしなきゃならないんだ。あの人たちの言っていたことは至極ごもっともなことで、俺だって本音では、その通りだと思っているよ。だけど、仕事なんだから、仕方ないじゃないか」と、おおむねこのように嘆いて、いっそこんな嫌な仕事なんて辞めちまおうかと言い出すに至っては、この、それまで「悪役」だった「高橋」が、いかにも「人間らしい人間」であり「善人」とさえ感じて、観客の多くは、彼に「好感」を持つだろう。

(東京の会社に帰ってから、リモート会議で経営コンサルタントのアドバイスを受ける高橋と黛。だが、納得のいく助言は得られないまま、社長命で、再度現地に赴かざるを得なくなる)

「そうだよ。私だって、似たようなことをして生きてきたんだ。仕事が、楽しいことばかりじゃないというのは、ひとつには、仕事の多くは、必ずしも人に喜ばれないことを、嫌々ながらも給料のためにやることだからだ。こんな私を誰が責められる。ならば、この高橋を責められる人間なんて、いやしない。あの地元民だって、立場が違えば、それをやらなければ、おまんま食い上げで、子供に飯も食わせられないとなれば、同じことをやったはずだ。そうじゃないか? そもそも鹿たちにすれば、人間はぜんぶ迷惑な存在でしかないんだ」

と、そんなふうに考えたのではないだろうか。一一つまり、ここで、ごく浅い層ではあるが「善悪は相対化される」のである。

そしてこのあと、本編の主人公、地元の「何でも屋」である「巧」の、娘「花」が、よくするように、学童保育から、森を通ってひとりで帰宅する最中に、行方不明になってしまう。

(巧と花)

この「行方不明」も、このとき初めて発生するというわけではなく、多くの観客は、可愛い少女が、一人で森の中を抜けて帰宅することに、もっと前から「不安」を覚えていたことだろう。
「もしかすると彼女は、誰かに誘拐されるのではないか?」とか「惨殺されるのではないか?」と、当然のようにそうした「不安」を抱かされるのだ。
なぜなら、それが、ある種の映画の「お約束」でもあれば、現実にも、たまにあることだからである。

だから、花が行方不明になったとわかると、観客の多くは、「やっぱり」と思ったことだろう。そして、花が無事に帰還できるのか否かとハラハラするはずだ。

(森の中の、鹿の水飲み場)

だが、上に引用した「ストーリー紹介文」にあるとおり、花は誘拐されたのでも殺されたのでもなく、ただ、自分の意思で「帰るのが遅れただけ」のようなのだ。
これは、子供にはよくある「レビュラーな行動」だとも言えるのだが、しかし、映画などの「フィクション」の場合、普通は「どうして花は、その日にかぎって、いつもどおりの時間に戻らなかったのか? 彼女は何を考えたのか? いや、もしかすると何かがあったのか?」といった、観客の当然の疑問に答えるだろう。

だが、本作は、その疑問に応えないどころか、彼女を発見した父の巧が、捜索に同行していた高橋に対し、その迂闊な行動を止める(予防する)ためだったのか何だったのか、いきなり、殺さんばかりの勢いで三角絞めを仕掛けて失神させてしまうのだか、これはいったい「なぜなのか?」、その疑問への説明もなされていない。
単に「やりすぎた」だけなのか、「殺してもいい」と思ってやったのか、あるいは「殺したつもりで、殺し損なっただけ」なのか。
また、高橋はいちど目を覚まして立ち上がり、また倒れるのだが、その後はどうなったのか。そのあたりも、何も説明されないのである。

そもそも巧は、主人公でありながら「何を考えているのか、よくわからない人物」である。
無表情で、平板にボソボソとした喋り方しかせず、口数も少ない。ちょっと見には、何を考えているのかよくわからないその風貌から、「本当は怖い人なんじゃないか? 何か人に言えない過去でもあるんじゃないか? だから、こんな山の中で、何でも屋なんて、よくわからない仕事をしているんじゃないか? そもそも嫁さんには先立たれたようだが、その死因は何なのだ?」と、疑いだせばキリがない。「説明されない部分」が多々あって、でも、時に見せる「本当は良い人」的な言動によって、観客の多くは、(すくなくともラストの「高橋への三角絞め」までは)「でも、たぶん無口なだけの、良い人なんだろう」と、そうした「不安」を惹起する懐疑を、無意識に抑圧するのである。
で、その挙げ句、最後の最後で「えっ? やっぱりこの人、わけわかんないよ」という状態に突き落とされたまま、本編は幕を閉じるのである。

そして、今のところ監督は、こうした疑問に対しての「回答」を、作品外でも開示していない。なぜか?

無論、そんなことは無意味であるだけではなく、作品の価値を下げるものでしかないからだ。
作者である監督に「正解」を教えてもらおうとするような「馬鹿」は、もともと映画を見る資格のない人間なのである。

もちろん、最初に書いたとおり、監督の「意図」というか、何らかの「腹づもり」はあるだろう。
だが、それが「正解」だとは考えない程度には、この監督は「賢い」と、私は思っている。
「自分の手でそれを明かして、わざわざ作品の可能性に蓋をするような、そんな馬鹿なことはしない。この作品は、放っておけば放っておくほど、その価値を自己増殖させていく作品に仕上がったんだから、あとはその成長を見守るだけだ」というのが、本作の「監督の意図」なのではないかと、私はそう理解している。

そんなわけで、本作が「どんな映画なのか」と言えば、それは「浅深多様な解釈を呼び込むことのできる映像を提供した作品」とでも言えるだろう。本作は、言うなれば「大きな器」であって、そこに中身を盛り込むのは、個々の鑑賞者なのだ。

しかし、その中身の「質や量」というのは、その観客自身の「質や量」を超えることはない。

しかしまた、この世界には、本当は、賢者も愚者もいない。
ただ、「人間が生きていく都合上の、相対的な人間的価値が、人間社会という枠内においてだけ、お約束として存在しているだけ」なのだ。

だから、あまり右顧左眄せずに、自分の頭で、この作品に価値を与えてみるべきなのである。それこそが「正解」なのだ。



(2024年6月22日)



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