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フィリップ・カウフマン監督 『SF / ボディ・スナッチャー』 : 宇宙人のなりすまし?

映画評:フィリップ・カウフマン監督『SF/ボディ・スナッチャー』(1978年・アメリカ映画)

皆さんは、この映画を観たことがあるだろうか?
こう尋ねたのは、まだ観ていない人に、次のように質問しかったからだ。

このタイトルを見て、「なんだか変だ」とか「ダサい」とか思わなかったですか?

そう思った人は、まったく正しい。
いくらSF映画だからと言って、「わざわざタイトルに〈SF〉ってつけるか?」って話である。このタイトルネーミングは、いかにもダサいではないか。

だがまあ「昔のB級SFホラー映画なんて、こんなもんだろう」と、さして気にしなかった私は、間違っていた。こんなヘンテコなタイトルになったのには、それなりの理由があるのだ。

その理由とは、本作がリメイク作品だったということである。
私はそのことに気づかず「よく聞くタイトルだな。それなりに評判の良い映画なのだろう」と思い、中古DVDが安かったので買って観ることにした。で、買った後にリメイク作品だとわかったのだ。しかも、三度もリメイクが作られた中の、これは最初のリメイク作品なのである。なんとなく、中途半端ではないか。それを知っていれば、まずオリジナル版か最新版リメイクを観ただろうに…。

そんなわけで、本作を含む、ジャック・フィニイのSF小説『盗まれた街』(原題:The Body Snatchers)の映画化作品は、現時点で次のとおりである。

(1)『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』ドン・シーゲル監督、1956年)
(2)『SF/ボディ・スナッチャー』フィリップ・カウフマン監督、1978年)※ 本作
(3)『ボディ・スナッチャーズ』アベル・フェラーラ監督、1993年)
(4)『インベージョン』オリヴァー・ヒルシュビーゲル監督、2007年)

(1)は、日本では劇場未公開だが、映画としては「名作」と言われ、アメリカ国立フィルム登録簿に永久保存登録されたそうだ。
(2)である本作は、その最初のリメイク作品。
(3)は、日本では劇場未公開。
(4)は、とうとうタイトルを、原作とは違うものにした、というわけである。

まあ、これほど頻繁にリメイクされた作品となれば、映画マニアなら、それなりにそうした事情を知ってもいるのだろうが、なにしろ映画ファンでもなければ、わざわざ古い映画を観ようなんて思わなかった昨年までの私は、まさか同じようなタイトルの作品が3作もあるとは思わず、単に「よく聞くタイトルだな。きっと評判の良い作品なんだろう」と、そう思っていた。
だから、安さで目についた本作のDVDを買ってから、初めてリメイク作品だと知り、微妙な気持ちになったのである。

(やたら美男美女のオリジナル版。モノクロ作品)

とは言え、いったん本作を後回しにし、オリジナル版を購入して、先に観よう、とまでは思わなかった。本作を観て、それでも観る価値があると思えれば「その時でいいや」ということにしたのである。

それにしても、昔の作品とは言え、いかにもダサい『SF/ボディ・スナッチャー』というタイトル。
もちろん、この「SF」という冠は、オリジナル版(1)との差異化を図るため、日本でつけられたもので、映画の原題には、こんなものはついていない。その意味でも、この邦題ネーミングの「責任者出てこい!」と言いたいところだが、すでに歴史的に定着したタイトルなので、今後もこれで通すしかないだろう。困ったものである。

 ○ ○ ○

さて、本題である、本作の中身である。

『空から泡が降ってきた。それが全ての始まりだった。サンフランシスコの公衆衛生調査官マシューはある日、同僚のエリザベスから奇妙な相談を受けた。彼女の恋人ジェフリーの様子が最近おかしくなり、以前の彼とは別人のようになったというのだ。
その翌日、エリザベスがマシューの家に駆け込んで来た。ジェフリーが見知らぬ人たちと密会しており、しかもジェフリーを含めた彼らは、人間らしい感情というものを持ち合せていないように思われたというのだ。マシューはエリザベスを知り合いの精神科医のキブナー博士のところへ連れて行くが、キブナー博士は、それを単なる幻覚にすぎないと断定した。
数日後、マシューの親友ジャックの家で不思議な物体が発見された。それは異様な繭状の物質の中に胎児のような粘着性をもつ、ジャックの顔をした人形のようなものであった。そしてその物体はエリザベスの家にも現れた。町の人たちは、この正体不明の生命体に肉体を乗っ取られていたのだ。それは宇宙から地球を侵略しに来た未知の生命体であった。
マシューとエリザベス、ジャックに彼の妻ナンシーの4人は町から逃げ出そうとするのだが…。』

Wikipedia「SF/ボディ・スナッチャー」より)

と、こういうお話である。
私は原作を読んでいないし、オリジナル映画版も観ていないので、ストーリーの変更点など、細かいところはよくわからないが、リメイクということもあって、オリジナル映画版そのままではなく、登場人物の設定など、細かいところでは変化を持たせてはいるようである。

ちなみに、上の「あらすじ」では、『空から泡が』となっているが、私には「羽毛」か「綿のちぎれ端」のように見えた。地球に着地して、雨に濡れてからは「泡」みたいになってはいたが。
それと、マシューの同僚エリザベスの『恋人ジェフリー』となっているが、同居して長そうだし、普通に見て「旦那」だとしか思えなかった。特に「同棲している恋人」だという説明もなかったし。

ともあれ、これだけ何度もリメイクされるのだから、原作小説が「映画向きに面白い物語」だというのは間違いないだろう。だから、基本的な筋立ての部分には、変更はない模様である。

要は、「あいつは、外見は同じでも別物だ」と騒ぐ人が出てきて、最初は狂人扱いだったのだが、同じようなことを訴える人がどんどん出てきて、街の様子もなんだかおかしいことに主人公らが気づき、その後にやっと、それが宇宙人の侵略であり、宇宙人が住人たちとすり替わることで、地球を我が物にしようとする陰謀だというのがわかる。
しかし、何とかしなければと言っているうちに、周囲の人たちがどんどんと宇宙人と入れ替わってゆき、むしろ主人公たちの方が、徐々に孤立状態に追い込まれてしまう。そこで、主人公の恋人たち(本作の場合は、マシューとエリザベス)は、街から脱出しようとするのだが…、というお話だ。

で、この映画についての、私の感想だが、SFホラーのサスペンスものとしては、ごく当たり前に楽しめる作品となっていると思う。
本作の眼目は、周囲の人たちが、いつの間にか宇宙人と入れ替わっており、主人公たちがじりじりと追い詰められていくサスペンスにあるので、派手なアクションなどないし、宇宙人が宇宙人の姿で派手に暴れるわけでもない。したがって、まだ「CG」のなかった時代の「手作り特撮」で十分に事足りるお話なのだ。
宇宙人の形態がグロテスクで「怖い」というのではなく、宇宙人になり替わられた人間たちが「怖い」作品なので、言うなれば、特殊メイクすら必要ない「ゾンビ物」みたいなものだと言えるかもしれない。しかも、知性もちゃんとあるんだから、ゾンビとは、また違った怖さで、その点は「物体X」に近い、その大量版とも言えるだろう。

私は、本作の制作年代に鑑みて、特撮にはまったく期待していなかったし、特撮シーンもそれほど多くなかった。とはいえ、けっこう感心させられる「特撮カット」もあった。
物語の冒頭付近、宇宙から綿毛のような物体が地球に飛来し、植物などに取り着くと、葉っぱの上などで、指先ほどの透明なゼリー状の本体から、何本も菌糸めいた触手を伸ばすというカットとか、つぼみ様に成長したものが、花のように開いていくカットなどは、コマ撮りアニメなのだろうが、本物の生き物のように見えて、かなり感心させたれた。

まあ、綿毛みたいなのが、宇宙空間を「ふわふわ」と飛んでくるのは、たしかにいただけない。
「太陽風に吹かれて飛んできた」という宇宙人の自己申告もあるのだが、しかし、太陽風に吹かれて移動することはできても、大気がなければ、いくら物が柔らかい綿毛様の物でも、「ふわふわ」した感じにはならないはずだからだ。

しかしまあ、そのあたりも、今となっては「ご愛嬌」ということなのかもしれない。サスペンスドラマとして楽しめたんだから、そういう瑣末な技術的問題を本気で論うのは、やはり野暮というものなのだろう。

だがまた、ドラマ本編としても、今となっては「ちょっとなあ」と思う部分がないでもなかった。
例えば、ヒロイン(エリザベス)が、旦那の様子がおかしくなったことに気づいて、最初は「何か怒らせるようなことをしたかしら?」みたいな感じなのだが、「ねえ、どうしたのよ」みたいな感じで、後ろから旦那の肩を抱いた瞬間に、いきなりハッとなって身を引き、「この人じゃない!」と(口にはしないが)気づいたというのは、いくら何でも勘が良すぎると思う。
それを、同僚の男性(主人公マシュー)に相談したら、当然「精神科医に診てもらった方がいい。疲れているんだよ」みたいな扱いを受けるのだが、それも当然のことだろう。いくら「女の直感」と言っても、「浮気に勘づく」のとはわけが違うのだ。どんなに様子がおかしくても、それは「何か事情があるのだろう」とは考えても「別人だ」とは思わないはずだからだ。

このほかにも、主人公とヒロインは、街の人々がどんどんと入れ替わっているのに気づきながら、なぜか身近な友人については疑わないを持たない、というのも不自然なことだ。
宇宙人が人間になり替わるための「さや」だか「さなぎ人間」みたいなグロテスクなものを見て、いったんその事実に確信を持ったのなら、そのあとは誰も彼もを信じられなくなる「疑心暗鬼」に陥って当然なのに、主人公たちは、相手が「人間らしく」振る舞っているぶんには、まったく疑おうとはしないのだ。

(キブナー役のレナード・ニモイ、マシュー役のドナルド・サザーランド、ジャック役のジェフ・ゴールドブラム

まあ、誰も彼もを疑って、一人で部屋に引きこもってしまったのでは、文字どおり「お話にならない」のだから、そうした鈍感さも、物語作りのためには必要なことなのだろう。「主人公が勇敢すぎる」などと言っては、活劇映画にならないのと同じようなことなのだろうが、しかし、自分をその立場に置いてみた場合、やっぱり「あまりにも不用意だな」という感が否めなかったのである。

 ○ ○ ○

さて、映画の内容の話はこれくらいにして、ここからは、本作を私の興味にひきつけて、思うところを書いてみたい。映画の評価とは無関係な、一般論である。

まず、私が、現実にこの映画のような状況におかれたら「人がその姿のまま、別人になり代わっている」なんて話は、決して信じないだろうという話だ。

映画を観ていると「なんで気づかないんだよ!」などと、つい考えてしまうし、そうであってこそ、映画のサスペンスも盛り上がるのだから、映画的にはそれでいいのだが、しかし、現実には、誰だって、よほどのことがないかぎり、宇宙人がなり替わっているなんて話は信じないし、そんな言い分は「狂人の戯言」だと確信するだろう。

実際、「なり替わり妄想」というのは、現実に存在するのだ。「カプグラ症候群」というのが、それである。

『カプグラ症候群(カプグラしょうこうぐん、Capgras delusion、カプグラシンドローム)とは、家族・恋人・親友などが瓜二つの替え玉に入れ替わっているという妄想を抱いてしまう精神疾患の一種。ソジーの錯覚(ソジーのさっかく)とも呼ばれる。よく見知った人物が、見知らぬ他人に入れ替わっていると感じてしまう現象を言う。偽物だと思い込む対象は無生物の例もある。以前は稀な症状であると思われていたが、今ではそれほど珍しいものでないことが分かっている。1923年にフランスの精神科医ジョセフ・カプグラ(1887年-1950年)らによって報告された。 仏人女性は側頭葉に損傷を負っており、認識した人や物に本来なら起こるはずの感情が起こらなかったことで、替え玉だと納得したと考えられている。』

こんな「精神疾患」が実在するのだから、「私の夫だと言ってるあの人は、見かけこそ同じだが、夫の偽物だ」なんて訴える人が出てきたら、まず、その人の頭を疑うというのは、当然のことであろう。
さらに言えば、その人ひとりではなく、旦那以外の家族全員がそう主張したとしても、やはり旦那が「偽物」だとは思わず、他の家族全員が「おかしくなった」のだと考えるだろう。家族の中では、しばしば「狂気が伝染する」という話もある。
いや、それだけではなく、旦那自身が「じつは、みんなのいうとおり、私は偽物なんですよ。遙かな宇宙からやってきた」などと自己申告し、家族が「やっぱり!」と納得したとしても、その話を目の前で聞かされた者は「こいつら全員、狂っている」と考えるのが当然なのではないだろうか。
むしろそこで「もしかして、本当にこの人の正体は、宇宙人なんじゃないか」なんて思うほど、自我の脆弱な人だったら、それこそその人自身が「狂気」に感化されやすい人だということになるのではないだろうか。

となるとである、私のように「神様なんか存在するわけないだろ」「宗教なんて、ぜんぶ迷妄だよ。現実に堪えられない人間の生んだ、願望充足的な妄想に過ぎない」などと断じているような人間なら、そんな「宇宙人のなり替わり」なんて話など、鼻で笑って済ませること間違いなしだろう。まあ、笑っては悪いから、適当に話を合わせることくらいはするのだが、それは「狂人」に対する思いやりであって、相手の言うことを信じているからではないのである。

だから、私が「宇宙人のなり替わり」を信じるためには、目の前で宇宙人の素顔を見せてもらうくらいのことは、最低してもらわないと無理。素顔を見せられても「特殊メイクだろ?」「ドッキリだろ?」と疑って、相手の顔の皮膚を弄り倒して確認するし、「地球人にはできないことを、今ここで、私の目の前でやってみせろ」くらいのことは言うだろう。「それができたら、信じてやる」と。一一これは宗教勧誘者に「神様が実在して、私を救いたいと思ってるというのであれば、今ここで、まぎれもない奇跡を起こして見せてください。それができたら、入信でも何でもしますよ」などと言うのと、まったく同じことである。

つまり、私のような「リアリズム人間」だと、到底「映画にならない」ということなのである。
映画の中の人物というのは、適当にわからず屋でありながら、適当に物分かりも良いという、非常に好都合な性格であり、私のような頑固な人間では、主人公はつとまらない。見かけが良いではダメなのだ(!)。

そんなわけで、作り話というのは、いかに「もっともらしく」作るかであって、リアルそのものでは、お話にならない。いかに、うまく嘘をつくかが問題なのだが、私のように疑りぶかい人間が相手だと、嘘をつくのも大変だ、ということになるのであろう。まったく批評家向きの性格だとは言えるだろうし、こういう性格だから、人に騙されることもないのだろうが。

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そんなわけで、この映画の原作であるジャック・フィニイのSF小説『盗まれた街』の面白さの本質というのは、たぶん、人間が根源的に持っている「不安」を、象徴的な物語に仕立てているからではないだろうか。

その「根源的な不安」とは、「この人は、偽者かもしれない」ということではなく、「見えているもの」と「認識」とが、ズレてしまう事態への不安であり、恐怖である。

どうして、同じように見える人が、昨日と同じ人だと言えるのだろう。それは、そう「感じている」から「そう思うだけ」で、確たる証拠なんかないし、他人が心の中で考えていることなど窺い知れない。
でも、そう信じなきゃ生きてはいけないから、慣習的にそう信じているだけであって、確たる根拠なんて、じつのところ、誰も持ってはいないのである。だから、そこにリアリティを固定しておく脳機能が、損傷または弱ったときに、人は「それがそれだ」と確信できなくなるのではないだろうか。

また、それと同じ原理で、「私のいるここは作り物の舞台であり、私以外の人はすべて役者なのかもしれない」なんていう話(妄想の妄想)も、ある種のリアリティを持って、物語化できるのであろう(映画『トルーマン・ショー』ピーター・ウィアー監督、1998年))。

このように考えていくと、人間の「理性」や「認知能力」というのは、いかにも危ういものだということに気づかずにはいられない。一一と、本作を観て、そんなことまで考えさせられたのである。

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ちなみに、観客には伏せられているが、本作のラストで、いつの間にか宇宙人になり替わられていた主人公マシューに、まだなり替わられていなかったナンシーが、それと気づかずに声をかけたところ、(その偽の)マシューが「人間を見つけたぞ!」ということだろうが、ナンシーを呼び指し、宇宙人独特の叫び声を上げるのだが、この時のマシュー役のドナルド・サザーランドの演技が、じつに素晴らしく不気味。
これだけでも一見の価値はあるので、多少ネタバラシにはなったが、有名な話でもあるので、重ねて紹介しておきたい。

この演技の「不気味さ」が、何に由来するものなのか、それを考えてみるのもまた、一興なのではないだろうか。


(2023年9月20日)

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