ドン・シーゲル監督 『ボディ・スナッチャー / 恐怖の街』 : 狂人の叫び、 ハリウッドの恐怖体験
映画評:ドン・シーゲル監督『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』(1956年・アメリカ映画)
以前に紹介した、フィリップ・カウフマン監督作品『SF/ボディ・スナッチャー』(1978年・アメリカ映画)の、オリジナル版にあたる作品だ。
フィリップ・カウフマン監督の『SF/ボディ・スナッチャー』を観た際には、この映画が三度もリメイクされている作品のひとつだとは知らなかったので、ジャック・フィニイの原作小説を映画化したものの2作目に当たる作品とは、まったく気づかずに鑑賞した。
そんなカウフマン版も、それなりに楽しめはした。しかし、リメイク版だけを観て、オリジナル版を観ていないというのは、整理癖のある私としては、なんとも気持ちが悪く落ちつかないので、やはりオリジナルを観ることにしたのである。
さて、映画のオリジナル版である、ドン・シーゲル監督による『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』は、どのような作品であり、その後、どの程度「乗っ取られ」「なり替わられていった」のであろうか?
○ ○ ○
この作品自体は「身近な人が、姿形はそのままに、別の何ものかになり替わられていく恐怖を描いた」作品として、今となっては、古典的な形式のSF作品だと言えるだろう。と言うか、この原作および四度もの映画化によって、このパターンは「古典化」したということなのかも知れない。
本作ドン・シーゲル版の特徴はというと、モノクロ作品であり、アメリカにとっては「黄金の1950年代」の作品ということもあって、たいへんスタイリッシュかつスマートに撮れているという印象が強い。
また主役は、いかにも当時らしい、凛々しくたくましい男性マイルズ・ベネル(ケヴィン・マッカーシー)と、その男性に守られる、美しくか弱いヒロイン、ベッキー・ドリスコル(ダナ・ウィンター)のペアである。
カウフマン版は、1978年の作品であり、ベトナム戦争の苦い経験の後なので、もはや単純に「アメリカの理想」を信じることができなくなっていたせいなのか、ドン・シーゲル版に比べると、どこか屈折した泥くささがあるように感じられた。
言い換えれは、ドン・シーゲル版には、もっとシンプルな感情がこもっているように感じられたのだ。
ジャック・フィニイの原作小説『盗まれた街』が1955年の作品であり、その翌年に、ドン・シーゲルによって映画化された本作だが、本作を評する上で、必ず問題となるのが、戦争が終わった1940年代後半から50年代初頭のアメリカに吹き荒れた「マッカーシズム(反共主義)」による「赤狩り」である。
以上を見てもらえばわかるように、第二次世界大戦の終了に伴い、戦勝国であるアメリカとソ連の二大大国による覇権争いが表面化し、自由主義的な個人主義を掲げるアメリカを盟主とする西側諸国と、共産主義を理想として掲げる社会主義(集団主義)を掲げるソ連を盟主とする東側諸国が、世界を二分する政治的対立関係となり、「東西冷戦」と呼ばれる時代に入った。
共産社会を最終的理想として掲げるソ連の社会主義(集団主義)とは、要は西側諸国が掲げる「自由主義(的な個人主義)」とは、弱肉強食の社会であり、資本家が労働者からその労働力を搾取することで、貧富の差が広がる「不平等」な社会だと批判するものであった。だからこそ、「共産主義」とは、国家による「計画経済」によって、皆が平等に働き、その利益を平等に分かち合う社会であるという「理想」であったのだ。
後に、そうした理想を掲げていたソ連の「現実」が、「赤い貴族」と呼ばれる少数エリートが権力をふるい、それに逆らう者は容赦なくシベリアの強制労働キャンプに送られる「恐怖政治の警察国家」であるといった事実が明るみに出て、理想としての「共産主義」への希望は、一気に失望へと転じるのだが、1940〜50年代のアメリカでは、まだまだ「共産主義」の「理想」を信じている人もいたから、「共産主義」の実態の如何にかかわりなく、政治的な観点から、人々の「赤化」を恐れた、アメリカ自由主義者は少なくなかったのである。
そんなわけで、人々が宇宙生物に徐々に乗っ取られていく恐怖を描いた本作には、「赤化(共産主義化)の恐怖」の寓話なのではないか、という批判がつきまとった。
だが、その一方、マッカーシズムによって、「思想信条の自由」が排除されていった現実を捉えて、本作は「全体主義」の脅威に対する「抵抗の物語」とする見方も出てきた。
つまり本作は、政治的な観点からは、真逆の解釈が可能な作品だったということである。
このあたりのことについては、映画評論家・竹島ルイによる次の文章、「『ボディ スナッチャー/恐怖の街』50年代アメリカのSF的ナイトメア」に詳しいので、ぜひご参照ねがいたい。
本作『ボディ スナッチャー/恐怖の街』理解における竹島ルイの立場は、後者である。
すなわち、本作は「赤化の恐怖」を描いた作品ではなく、むしろ「マッカーシズム」に象徴される全体主義的な抑圧に対する「個人の尊厳をかけた抵抗の物語」だったとする解釈だ。
そして、その根拠は、ドン・シーゲル監督の撮ってきた作品の主人公の多くが、「集団」の同調圧力に屈しない独立不羈なアウトローであり、また、ドン・シーゲル自身もそんな人であったというもので、竹島は、この文章を次のように結んでいる。
『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』という作品に関していうなら、きっとこの竹島ルイの評価が正しいのだと思うし、私に、特に付け加えることはない。
ただ、ひとつ言っておきたいことは、本作を「反共映画」と理解することもできれば、真逆に「赤狩り(異分子狩り)批判映画」と取ることもできるというのは、その本質が、イデオロギーの左右に関わりなく「一色に染まってしまうこと」あるいは、「全体主義的なもの」への批判にあったのではないか、ということだ。
したがって、わかりやすく言えば、私たちは「共産主義国に行けば共産主義に批判し、自由主義国に行けば自由主義に批判する」人間であることができるのかが、問われているのではないだろうか。
どんな社会においても、決して「完璧」ということはあり得ず、どこかしらに問題は存在するし、それは往々にして体制側から隠蔽されるものである。
しかし、にもかかわらず多くの人は「体制支持者」であり、「反体制」主義者を「アウトロー」として阻害する側なのだ。
だが、どのような体制の下にあろうと、その体制の問題点を厳しく指摘し、反発する「アウトロー」こそが、真の意味での「愛国者」であり「守護者」なのではないだろうか。
一色に染まって「そうだそうだ」と言っているような、気持ちの悪い複製人間的な多数派ではなく、個性を持って「ちょっと待てよ、俺はそうは思わない」と言える者こそが、人間らしい人間だということを、この作品は語っているのではないか。
この作品で、すでになり替わられた人物(ポッド・ピープル)の一人は、主人公たちを眠らせて、その生体情報を模造身体へと転移させるために、次のような説得を試みる(暴力的に気を失われたり、睡眠薬などを使うと、正確な情報が取れないということらしい)。
だが、主人公は、それに対して、
これに対しては、こう答える。
そして、最後は「それに、君には選択権などないんだということを忘れるな」と脅しをかけるので、主人公は、いったんは説得されたふりをして引き下がり、タイミングを見て、その場から逃亡するのである。
さて、このやりとりを読めばわかるとおり、「彼ら(ポッド・ピープル)」の意見は、かなりのところ説得力があり、一方「個性」や「個人的な思い」や「個人的な愛」ばかりの主人公の意見は、あまりにもナイーブなものであり、いっそ幼稚だと言っても過言ではないだろう。
ただ、このやり取りで、最も重要なのは、最後の「選択の余地は与えられていない」という「脅迫」なのではないだろうか。
人間の価値観は多様であり、また個々の価値観には、優劣正誤の多様な側面があって、対立する価値観のどちらか一方が正しいとは、単純には断じ得ない。同じ価値観や主義主張でも、時と場合によっては、その意味するところも価値も変わってくるだろう。
そうした場合に、最後の切り札となるのは「対等の議論」の保証なのではないだろうか。
どんなに正しそうな意見であっても、「問答無用」というかたちを採った時、それは何か「不気味な本性」を隠し持ったものでしかないと、そう言えるのではないだろうか。
そして、しばしば私たち自身が、「多数派」であることに胡座をかいて、いつの間にか、そんな「不気味で胡散くさい存在」になっているのではないだろうか。
今の日本の、いろんな「ブーム」現象のどれをとっても、いや「ヒット映画の評価」ひとつとっても、私たちは、あまりにも「似かよりすぎた存在」になっているとはいえないだろうか? むしろ「みんなと一緒」になりたがってはいないだろうか。
「お前たち、変だよ! 気持ち悪いよ!」
という、私たちに向けられた叫びは、果たして狂人のそれだと、そう言い切って良いものなのだろうか。
(2023年10月27日)
○ ○ ○
○ ○ ○
・