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ドン・シーゲル監督 『ボディ・スナッチャー / 恐怖の街』 : 狂人の叫び、 ハリウッドの恐怖体験

映画評:ドン・シーゲル監督『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』(1956年・アメリカ映画)

以前に紹介した、フィリップ・カウフマン監督作品『SF/ボディ・スナッチャー』(1978年・アメリカ映画)の、オリジナル版にあたる作品だ。

フィリップ・カウフマン監督の『SF/ボディ・スナッチャー』を観た際には、この映画が三度もリメイクされている作品のひとつだとは知らなかったので、ジャック・フィニイの原作小説を映画化したものの2作目に当たる作品とは、まったく気づかずに鑑賞した。

(1)『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』(ドン・シーゲル監督、1956年)
(2)『SF/ボディ・スナッチャー』(フィリップ・カウフマン監督、1978年)
(3)『ボディ・スナッチャーズ』(アベル・フェラーラ監督、1993年)
(4)『インベージョン』(オリヴァー・ヒルシュビーゲル監督、2007年)

そんなカウフマン版も、それなりに楽しめはした。しかし、リメイク版だけを観て、オリジナル版を観ていないというのは、整理癖のある私としては、なんとも気持ちが悪く落ちつかないので、やはりオリジナルを観ることにしたのである。

さて、映画のオリジナル版である、ドン・シーゲル監督による『ボディ・スナッチャー/恐怖の街は、どのような作品であり、その後、どの程度「乗っ取られ」「なり替わられていった」のであろうか?

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この作品自体は「身近な人が、姿形はそのままに、別の何ものかになり替わられていく恐怖を描いた」作品として、今となっては、古典的な形式のSF作品だと言えるだろう。と言うか、この原作および四度もの映画化によって、このパターンは「古典化」したということなのかも知れない。

本作ドン・シーゲル版の特徴はというと、モノクロ作品であり、アメリカにとっては「黄金の1950年代」の作品ということもあって、たいへんスタイリッシュかつスマートに撮れているという印象が強い。
また主役は、いかにも当時らしい、凛々しくたくましい男性マイルズ・ベネル(ケヴィン・マッカーシー)と、その男性に守られる、美しくか弱いヒロイン、ベッキー・ドリスコル(ダナ・ウィンター)のペアである。

カウフマン版は、1978年の作品であり、ベトナム戦争の苦い経験の後なので、もはや単純に「アメリカの理想」を信じることができなくなっていたせいなのか、ドン・シーゲル版に比べると、どこか屈折した泥くささがあるように感じられた。
言い換えれは、ドン・シーゲル版には、もっとシンプルな感情がこもっているように感じられたのだ。

ジャック・フィニイの原作小説『盗まれた街』が1955年の作品であり、その翌年に、ドン・シーゲルによって映画化された本作だが、本作を評する上で、必ず問題となるのが、戦争が終わった1940年代後半から50年代初頭のアメリカに吹き荒れた「マッカーシズム(反共主義)」による「赤狩り」である。

マッカーシズム(英: McCarthyism)とは、1950年代アメリカ合衆国で発生した反共産主義に基づく社会運動、政治的運動。
アメリカ合衆国上院(共和党)議員のジョセフ・マッカーシーによる告発をきっかけとして「共産主義者である」との批判を受けたアメリカ合衆国連邦政府職員、マスメディアやアメリカ映画の関係者などが攻撃された。

歴史
アメリカ合衆国では第一次世界大戦が終結した後、十月革命を経たロシアにソビエト連邦が誕生した後、ボリシェヴィキ、アナーキズムに対する警戒心が高まった。「狂騒の20年代」とも呼ばれた1920年代のアメリカ合衆国では、無実のイタリア系移民のアナーキストを当局が処刑したサッコ・ヴァンゼッティ事件が発生している。
ファシスタ・イタリア、ドイツなどファシズム国家がヨーロッパに抬頭した1930年代から1940年代初めになると反ファシストを旗印に掲げるアメリカ共産党が労働運動に浸透し、小規模ながら一定の支持を獲得していた。1932年のボーナスアーミーに対するように、これらの社会主義、共産主義運動は政府の監視を受けていたが、第二次世界大戦中は連合国の一国として同盟関係にあったソビエト連邦との協調が優先され表立った弾圧は行われなかった。
1945年に第二次世界大戦が終結すると、アメリカ合衆国とソビエト連邦との潜在的な対立が直ちに表面化した。中華民国の第二次国共内戦に勝利した中国共産党によって1949年10月1日に中華人民共和国が成立したこと、1949年のソビエト連邦による核実験の成功、1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争などが原因でアメリカ国内では共産主義への脅威論が高まっていた。
1945年には戦時中にニューヨークでソ連のためにスパイ活動を行なっていたエリザベス・ベントリーがFBIに軍需生産委員会で働いていた経済学者ネイサン・シルバーマスターや財務次官補のハリー・ホワイトなどのスパイ行為を暴露した。ホワイトは1948年に下院の下院非米活動委員会でスパイ行為を否定した数日後に自殺した。
また、ジョン・カーター・ヴィンセントら日中戦争期に中華民国内の中国国民党よりも中国共産党を評価していた「チャイナ・ハンズ」と呼ばれる外交官が告発され、免職された。
1947年には非米活動委員会でハリウッドにおけるアメリカ共産党の活動が調べられた。チャーリー・チャップリンジョン・ヒューストンウィリアム・ワイラーなども対象となり、委員会への召喚や証言を拒否した10人の映画産業関係者(ハリウッド・テン)は議会侮辱罪で訴追され有罪判決を受け、業界から追放された(ハリウッド・ブラックリスト)。グレゴリー・ペックジュディ・ガーランドヘンリー・フォンダハンフリー・ボガートローレン・バコールダニー・ケイカーク・ダグラスバート・ランカスターベニー・グッドマン(ジャズ音楽家)、キャサリン・ヘプバーンジーン・ケリービリー・ワイルダーフランク・シナトラなどが反対運動を行った。ペックは、リベラルの代表格だった。一方で、政治家のリチャード・ニクソンや映画業界人のロナルド・レーガンウォルト・ディズニーゲーリー・クーパーロバート・テイラーエリア・カザンらは告発者として協力した。またジョン・ウェインクラーク・ゲーブルセシル・B・デミルらも赤狩りを支持した。』

(Wikipedia「マッカーシズム」

以上を見てもらえばわかるように、第二次世界大戦の終了に伴い、戦勝国であるアメリカとソ連の二大大国による覇権争いが表面化し、自由主義的な個人主義を掲げるアメリカを盟主とする西側諸国と、共産主義を理想として掲げる社会主義(集団主義)を掲げるソ連を盟主とする東側諸国が、世界を二分する政治的対立関係となり、「東西冷戦」と呼ばれる時代に入った。

共産社会を最終的理想として掲げるソ連の社会主義(集団主義)とは、要は西側諸国が掲げる「自由主義(的な個人主義)」とは、弱肉強食の社会であり、資本家が労働者からその労働力を搾取することで、貧富の差が広がる「不平等」な社会だと批判するものであった。だからこそ、「共産主義」とは、国家による「計画経済」によって、皆が平等に働き、その利益を平等に分かち合う社会であるという「理想」であったのだ。

後に、そうした理想を掲げていたソ連の「現実」が、「赤い貴族」と呼ばれる少数エリートが権力をふるい、それに逆らう者は容赦なくシベリアの強制労働キャンプに送られる「恐怖政治の警察国家」であるといった事実が明るみに出て、理想としての「共産主義」への希望は、一気に失望へと転じるのだが、1940〜50年代のアメリカでは、まだまだ「共産主義」の「理想」を信じている人もいたから、「共産主義」の実態の如何にかかわりなく、政治的な観点から、人々の「赤化」を恐れた、アメリカ自由主義者は少なくなかったのである。

そんなわけで、人々が宇宙生物に徐々に乗っ取られていく恐怖を描いた本作には、「赤化(共産主義化)の恐怖」の寓話なのではないか、という批判がつきまとった。
だが、その一方、マッカーシズムによって、「思想信条の自由」が排除されていった現実を捉えて、本作は「全体主義」の脅威に対する「抵抗の物語」とする見方も出てきた。
つまり本作は、政治的な観点からは、真逆の解釈が可能な作品だったということである。

このあたりのことについては、映画評論家・竹島ルイによる次の文章、「『ボディ スナッチャー/恐怖の街』50年代アメリカのSF的ナイトメア」に詳しいので、ぜひご参照ねがいたい。

本作『ボディ スナッチャー/恐怖の街』理解における竹島ルイの立場は、後者である。
すなわち、本作は「赤化の恐怖」を描いた作品ではなく、むしろ「マッカーシズム」に象徴される全体主義的な抑圧に対する「個人の尊厳をかけた抵抗の物語」だったとする解釈だ。

そして、その根拠は、ドン・シーゲル監督の撮ってきた作品の主人公の多くが、「集団」の同調圧力に屈しない独立不羈なアウトローであり、また、ドン・シーゲル自身もそんな人であったというもので、竹島は、この文章を次のように結んでいる。

“社会の反逆者”としての主人公

 『刑事マディガン』(68)や『ダーティハリー』(71)に代表されるアクション映画、『燃える平原児』(60)や『真昼の死闘』(70)に代表される西部劇。ドン・シーゲルは職人監督として様々なジャンルを横断しながら、男臭い活劇映画を撮り続けてきた。その中で『ボディスナッチャー/恐怖の街』のようなSFスリラーは、彼のフィルモグラフィーの中でも特異な位置を占めている。

 だが実際のところ本作もまた、極めてドン・シーゲル的なキャラクターが躍動する映画と言える。彼の作品において主人公の男性たちは、社会的コミュニティに属さず、妻も子供もいない。あらゆる規範から自由であろうとし、典型的なアウトローとしてスクリーンに現出する。いわば彼らは、社会の反逆者なのだ。

 ポッド・ピープル(※ 豆の鞘状のものから生まれた模造人間)によって占拠されたサンタ・ミラの街で、彼と恋人のベッキー(ダナ・ウィンター)は唯一の人間として孤軍奮闘し、彼らの懐柔にも乗らず、社会システムに組み込まれることを断固拒否する。そしてベッキーがポッド・ピープルに乗っ取られてしまっても、彼女との愛を全うすることはせず、たった一人で集団と対峙することを選ぶ。反共映画とか反赤狩り映画とか言う前に、そもそもアウトロー的な振る舞いこそが、非常にドン・シーゲル的なのだ。

 彼の現場で演出を学んだクリント・イーストウッドは、こう語っている。

「実際のところ、彼にはいつも敵が必要だった。映画会社なり、プロデューサーなりのね。(中略)ドンは、製作担当者たちを嫌っていた。助手か秘書くらいに考えていて、実際、その程度の扱いしかしなかった。(中略)ドンは昔のスタジオ・システムが大嫌いだった」

 ドン・シーゲルもまた、スタジオ・システムに反抗し、アウトローとして映画道を貫いてきた。白と黒のコントラストが美しいノワール的ショットが横溢し、あえてカメラを傾けるダッチアングルも活用するなど、男臭いというよりはスタイリッシュな印象すら受ける『ボディスナッチャー/恐怖の街』だが、その構造はまごうことなきドン・シーゲル・フィルムなのである。』

『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』という作品に関していうなら、きっとこの竹島ルイの評価が正しいのだと思うし、私に、特に付け加えることはない。

ただ、ひとつ言っておきたいことは、本作を「反共映画」と理解することもできれば、真逆に「赤狩り(異分子狩り)批判映画」と取ることもできるというのは、その本質が、イデオロギーの左右に関わりなく「一色に染まってしまうこと」あるいは、「全体主義的なもの」への批判にあったのではないか、ということだ。

したがって、わかりやすく言えば、私たちは「共産主義国に行けば共産主義に批判し、自由主義国に行けば自由主義に批判する」人間であることができるのかが、問われているのではないだろうか。

どんな社会においても、決して「完璧」ということはあり得ず、どこかしらに問題は存在するし、それは往々にして体制側から隠蔽されるものである。
しかし、にもかかわらず多くの人は「体制支持者」であり、「反体制」主義者を「アウトロー」として阻害する側なのだ。

だが、どのような体制の下にあろうと、その体制の問題点を厳しく指摘し、反発する「アウトロー」こそが、真の意味での「愛国者」であり「守護者」なのではないだろうか。

一色に染まって「そうだそうだ」と言っているような、気持ちの悪い複製人間的な多数派ではなく、個性を持って「ちょっと待てよ、俺はそうは思わない」と言える者こそが、人間らしい人間だということを、この作品は語っているのではないか。

この作品で、すでになり替わられた人物(ポッド・ピープル)の一人は、主人公たちを眠らせて、その生体情報を模造身体へと転移させるために、次のような説得を試みる(暴力的に気を失われたり、睡眠薬などを使うと、正確な情報が取れないということらしい)。

(「君に選択権はない」)

「何も恐れることはない。君だって、眠って目を覚ました後には、それまで持っていた、いろんな悩みが消えていることに気づくだろう。われわれ(※ ポッド・ピープル)はお互いに完全に理解し合うことができるし、つまらない個人的な欲望に煩わされることもないのだ。その方がいいに決まっているだろう」

だが、主人公は、それに対して、

「個性はどうなる? 彼女を愛しているという、私の愛も無くなってしまうんだろう? そんなのはごめんだ!」

これに対しては、こう答える。

「(※ 離婚を経験した)君らも知ってのとおり、永遠の愛などない。愛、欲望、野心、信念などない方がシンプルに生きられる」

そして、最後は「それに、君には選択権などないんだということを忘れるな」と脅しをかけるので、主人公は、いったんは説得されたふりをして引き下がり、タイミングを見て、その場から逃亡するのである。

さて、このやりとりを読めばわかるとおり、「彼ら(ポッド・ピープル)」の意見は、かなりのところ説得力があり、一方「個性」や「個人的な思い」や「個人的な愛」ばかりの主人公の意見は、あまりにもナイーブなものであり、いっそ幼稚だと言っても過言ではないだろう。

ただ、このやり取りで、最も重要なのは、最後の「選択の余地は与えられていない」という「脅迫」なのではないだろうか。

人間の価値観は多様であり、また個々の価値観には、優劣正誤の多様な側面があって、対立する価値観のどちらか一方が正しいとは、単純には断じ得ない。同じ価値観や主義主張でも、時と場合によっては、その意味するところも価値も変わってくるだろう。
そうした場合に、最後の切り札となるのは「対等の議論」の保証なのではないだろうか。
どんなに正しそうな意見であっても、「問答無用」というかたちを採った時、それは何か「不気味な本性」を隠し持ったものでしかないと、そう言えるのではないだろうか。

そして、しばしば私たち自身が、「多数派」であることに胡座をかいて、いつの間にか、そんな「不気味で胡散くさい存在」になっているのではないだろうか。

今の日本の、いろんな「ブーム」現象のどれをとっても、いや「ヒット映画の評価」ひとつとっても、私たちは、あまりにも「似かよりすぎた存在」になっているとはいえないだろうか? むしろ「みんなと一緒」になりたがってはいないだろうか。

「お前たち、変だよ! 気持ち悪いよ!」

という、私たちに向けられた叫びは、果たして狂人のそれだと、そう言い切って良いものなのだろうか。

(本作の冒頭は、自身の体験を訴えて、狂人扱いされる主人公の姿から始まる)


(2023年10月27日)

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