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芥川龍之介 『侏儒の言葉 文芸的な、余りに文芸的な』 : 芥川龍之介の〈墓碑銘〉

書評:芥川龍之介『侏儒の言葉 文芸的な、余りに文芸的な』(岩波文庫ほか)

芥川龍之介と言えば「日本を代表する純文学作家」だと、長らくそう思いこんでいた。いや、事実そのとおりなのだろうが、この「思い込み」は、芥川龍之介の本を読んだ上で形成されたものではなく、

(1)日本で最も有名な文学賞は「芥川龍之介賞」である。
(2)芥川龍之介の作品は、小学校の「国語」の教科書によく採用されており、子供が読んでも理解できるし、面白い。
(3)時代の不安を体現したかのような自殺して果てた、苦悩深き作家。

といったことがあるからではないだろうか。

つまり、芥川龍之介の作品をほとんど読んでいない人でも、芥川龍之介の名前は知っているし、「文学賞」「教科書」「自殺(苦悩)」といった、いかにも「非凡な権威」を感じさせるエピソードの取り揃った作家なので、私たちは芥川のことを、まずイメージとして「日本を代表する純文学作家」だと思いこんでいたのではないか。

しかし、他の純文学作家の本や、非純文学作家の本、あるいは、そうした区別が基本的にはない海外の小説家の本をあれこれ読んだ今になって、ふと芥川龍之介のことを考えてみると、はたして彼を「日本を代表する純文学作家」だと言い切れるのかと、少々疑問を感じるようになった。

たしかに「頭が良くて、うまい作家」ではあるけれども、「すごい作家」「偉大な作家」「偏愛して止まない作家」といった評価をする気にはならないし、そうした評価もあまり耳にしない。日本の純文学ファンの中でも、真っ先に芥川龍之介が好きだと言う人は、そう多くはないのではないだろうか。
やはり、芥川龍之介の一般的なイメージには、前記の外的三要素が大きく働いた結果に違いないと、私にはそう思えるのだ。

そして、小説以外の芥川作品として今回初めて読んだ、箴言集である「侏儒の言葉」と文学論エッセイ「文芸的な、余りに文芸的な」は、私のこうした芥川観を裏付けるものにしかならなかったようである。残念ながら、私の先読み的推測を裏切ってはくれなかったのだ。

「侏儒の言葉」は、良くも悪くも、よく書けた箴言集であって、たまに引用してみせるのには便利な、キレと見栄えのいい「珠玉の言葉」の数々である。一一しかし、それだけだ。これでは「文学」ではないし、批評としても薄っぺらい。所詮は、頭のいい人の、ちょっとひねった「正論」でしかない。その域を出ないのだ。
だが、文学者に期待されるのは、こんなお手軽で便利なものではないと思う。もっと「言葉を尽くしても尽くしても語りきれないものとの、言葉を武器としての格闘」だと、そんなふうに私は思うのだが、芥川の箴言は、箴言というものの多くがそうであるように、一歩引いたところでスマートにコメントするものでしかない。泥だらけの取っ組み合いをする気が端から無い、さながら「高等遊民」の趣味的なそれに止まっているのだ。

それに比べれば、文学論エッセイである「文芸的な、余りに文芸的な」の方は、「泥だらけの格闘や、ベタ足の殴り合いなどしたくはない」という、芥川の悲痛な本音が語られていて、痛々しいものとなっている。そして、その意味では、私小説にも似たその性格において、読むに値する「告白」であり「文学」となり得てはいるものの、しかし、「裸」になりきれない人である芥川の「繊弱さ」は、やはりここでも否定し難く露呈している。その悲痛な防衛的ポーズを、捨てきれてはいないのだ。

「文芸的な、余りに文芸的な」は、谷崎潤一郎との「筋のある小説」論争の一部を成すものだが、そこで争われたことは、何ら難しい話ではない。要は、スタンダールやトルストイといった偉大な外国作家の作品に典型される「物語性のある、小説らしい小説」について、芥川自身はさしたる魅力を感じなかった、ということでしかなく、彼が書きたいと思い、彼が「文学の美」として見たものは、もっと繊細な「詩情」だったのである。「テーマ」だの「物語」だの「批評」だのといった「大声」では語れない、もっと繊細な、いわば「凝縮され磨き抜かれた魂」だったのだ。

しかし、結局のところ、それは芥川の「趣味」でしかない。極めて「良い趣味」ではあろうが、しかしそれは、谷崎潤一郎のような、神をも恐れぬ豪腕作家の共感を得られるようなものではなかった。そしてまた、聡明な芥川自身も、そのことを十二分に自覚できていたからこそ、彼の言葉は、痛ましいまでに言い訳がましいものになってしまったのだ。

言うまでもないことだが、「文学」というのは、何でもありだ。だが、それは「どんな小説でも、同等に価値がある」という意味ではなく、「何をやってもいいけれど、何をどうやっていても、駄作は駄作だし、傑作は傑作だ」ということだ。「方法論」で「作品」が正当化されることなどないのである。

だからこそ、谷崎のような豪腕の作家は、力で読者をねじ伏せようとするし、実際にそれができてしまう。
しかし、芥川龍之介という人は、そういうことを「下品」と感じてしまう、上品繊細な人であったし、それが彼の「繊弱さ」ということでもあった。

彼は、実に誠実な人であったのだが、しかし「文学」というものは、もっと貪欲な魔物であり、芥川の痩身では、ついにその食欲を満たしてやることができなかったのだろう。
喰い尽くされた芥川龍之介の後に残ったものはただ、そんな彼を悼むための「墓標」であり、「芥川賞」「教科書掲載作家」「自殺した苦悩の作家」という、「墓碑銘」だったのではないだろうか。

初出:2020年12月23日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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