ヨルシカの冬眠について考えたこと

ヨルシカさんの主に冬眠の歌詞について考察したことです。
歌詞には「」を付けています。

「雨の上がる校庭で昨日の花火を思い出した」
雨上がりは水たまりが光をきらきら反射しているので、そこから花火の光を思い出したのかなと思います。

「長い眠りについたあとに 雲に乗って 風に乗って」
「深い眠りが覚めた頃に 水になって 花になって」
から、
雲の状態が眠りで、雨という水となって目覚める
種子が風に運ばれてる状態が眠りで、花となって目覚める と思いました。

「雨の上がる校庭」「花の揺れる校庭」は、
冬眠の後、遠い場所で目覚めた後の場所かなと思います。
「昨日の花火」「昨日の夕陽」は、冬眠前の出来事と取れます。
睡眠中は時間感覚が無くなるので、本人にとって昨日の出来事なのかなと。

「水になって 花になって 空を見ようよ 言葉とかいらないよ」とあります。水や花になれば言葉は必要なくなるのでしょう。
人間が水や花になることは、言葉での思考を辞めるという意味で、ひとつの冬眠だと思いました。

冬眠するのは熊などの動物で、人間は冬眠しません。
冬眠という曲名から、人でない動物になりたいという気持ちを感じました。
前世(曲)の詩でも、生まれ変わって犬になっていますし。


冬を終に掛けている気がします。
「終」の「冬」は年のおわり、「糸」は糸巻に最後まで巻き付けるの意で、
糸巻と輪廻転生は、回っているのが似てます。
アンコールはいらない、一度終わりたいから眠るのかなと思いました。


「秋になって 冬になって」を
空きになって浮遊になって とすると、
「雲に乗って 風に乗って」に繋がる気がしました。
身体から抜け(空き)、魂が浮遊(冬)するから雲や風に乗れると。


「雲に乗って 風に乗って」は、風雲に乗る、時代の風雲児になるとも取れます。
「ここじゃ報われない」から、自分に合う場所や時代を目指すとか。
最後の「君とだけ生きたいよ」は、君以外の全てを捨てて(忘れて)遠くに行く、冬眠するのかなと。


雲と幽霊と冬眠を、関連付けて考えてみます。

雲と幽霊は、雲とゆう霊→雲という霊
つまり、雲=霊 という意味に思えます。
「雲が遠いね」「ずっと遠くに行けたらいいのにな」から「僕」は雲に憧れていたと取れ、だから雲という霊になったのかなと思います。

雲と幽霊の雲は、「夜の雲が高いこと」「夜しかもう眠れずに」から、眠りの状態(冬眠)と受け取れます。
冬眠の主体と同じ人物な気がしました。


冬眠「遠くに行こうよ」
雲と幽霊「遠くに行けたらいいのにな」の
「遠くに」=遠国とおくに と思うと、
エルマ(曲)やエイミー(曲)の「何処かの遠い国」「何処か遠くの国」に繋がります。

「夜しかもう眠れずに」(雲と幽霊)と「浅い夏の隙間に寝そべったまま」(エルマ(曲))が眠りで共通、
「ここじゃ報われないよ」(冬眠)と「浅い夏の隙間を彷徨いながら」(エイミー(曲))が移動することで共通していて、
遠国の後の歌詞が対応してる気がしました。

以上です。