本能寺の変1852 その一因 一、光秀の年齢 そ小75 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
その一因 一、光秀の年齢 そ小75
2光秀の年齢 4光秀、最大の敵 5/6
はじめに ←目次 ←その一因 目次大 目次中 一、光秀の年齢 ←
→重要 ◎目次
→重要Point ◎目次 重要Point 通し ◎目次
→テーマ別 目次 テーマ別 通し ◎目次
→【シリーズ】信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【 重要史料 】 【 人物 】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
そ小75 そ第75話
光秀は、己の老いを自覚した。
信長は、歩みを止めず。
光秀は、滝川一益の上野入国を思い起こした。【 重史 022】『信長公記』
斯くして、一益の老後は、定まった。
信長は、猜疑心が強い。
有力な重臣を遠隔地に配した。
光秀は、すぐ近くでこれを見ていた。
光秀にも、国替えの可能性があった。 【 重史 022】『信長公記』
その先に、信長の「さらなる夢」があった。
すなわち、天下統一後も、戦いは、つづく。
そして、光秀は、信長より、先に、死ぬ。
ならば、光慶は、如何に・・・・・。
明智は、如何に・・・・・。
光秀にとって、このことが、最大の悩み。
信長は、不意を衝く。
光秀は、信長の性格をよく知っていた。
役に立たねば、粛清される。
光秀には、先が見えた。
中国攻め → 国替え → 「さらなる夢」
これすなわち、明智の危機。
これを阻止するためには、中国攻めを取り止めにする他ない。
それ故の、「本能寺」。
「六月二日、未明」、だったのだろう。
⇒ 次へつづく
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?