本能寺の変1582 【 重史 32 】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【 重史 032】 「惟任退治記」
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*加筆修正
【 重史 032】 そ第78話
ときは今、あめかしたしる五月かな、
「惟任退治記」
「惟任退治記」は、「天正記」(現存八巻)のうちの一巻。
「惟任謀反記」とも、いう。
作者は、大村由己。
秀吉の御伽衆である。
秀吉は、実に、素早かった。
本能寺の変 六月二日。
山崎の合戦 同、十三日。
その、直後。
十月には、すでに、この書が、世の出ていたという。
すなわち、同書は、信長亡き後の、秀吉の行動を、美化・正当化するため
に書かれた宣伝本。
秀吉は、言葉巧みに、世間を丸め込んだ。
狡猾な男である。
惟任(光秀)、公儀(信長)を奉じ、二万余騎の人数を揃え、
備中に下らずして、密かに謀反をた工(たく)む、
併(しか)しながら、当座の存年に非ず、
年来の逆意、識察する所なり、
扨(さて)、五月廿八日、愛宕山に登り、一座の連歌を催す、
光秀、発句に云はく、
ときは今、あめかしたしる五月かな、
ここで、注目!!
これには、「あめがしたしる」とある。
⇄【比較参照】【 重史 005 】「続群書類従」「あめか下なる」
⇄【比較参照】【 重史 031】『信長公記』「あめが下知る」
秀吉は、光秀が、己の心中を、事前に、打ち明けていた、と言っている。
創作したのは、由己であるが・・・。
これで、話は、いよいよ、盛り上がって行く。
今、これを思惟すれば、則ち、誠に、謀反の先兆なり、
何人か、兼ねて、これを悟らんや、
然るに、天正十年六月朔日、夜半より、
彼の二万余騎の人数を延(ひ)きい、丹波国亀山を打ち立ち、
(「惟任退治記」)
【引用】 そ第78話
⇒ 次へつづく
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