見出し画像

本能寺の変1582 【 重史 31 】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【 重史 031】 『信長公記』 

はじめに ←目次 ←【 重要史料 】 ← 
重要 ◎目次 
重要Point ◎目次 重要Point 通し ◎目次 
テーマ別 目次 テーマ別 通し ◎目次 
→【シリーズ】信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 
その一因 目次大 目次中 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【 人物 】 
*加筆修正 

【 重史 031】 そ第78話⑫ そ第78話⑬

①廿七日に、亀山より愛宕山へ仏詣。

②廿八日、西坊にて連歌興行。

③ときは今、あめが下知る五月哉

④五月廿八日、丹波国亀山へ帰城。  
                       『信長公記』

 【 重史 030】

 天正十年1582、五月二十七日。
 光秀は、戦勝を祈願するため愛宕山に参詣した。
 
  次の日、廿七日に、亀山より愛宕山へ仏詣。
  一宿参籠致し、惟任日向守、心持御座侯や、
  神前へ参り、太郎坊の御前にて、
  二度三度まで鬮(くじ)を取りたる由、申し侯。

 翌、二十八日。
 光秀は、連歌会を催した。

  廿八日、西坊にて連歌興行。

  発句     惟任日向守
  ときは今、あめが下知る五月哉   光秀
  水上まさる、庭のまつ山      西坊
  花落つる、流れの末を関とめて   紹巴
 
  か様に、百韵(いん)仕り、神前に籠(こめ)置き、

 ここで、注目!!
 こちらには、「あめが下知る」とある。
     ⇄【比較参照】【 重史 005 】「続群書類従」「あめか下なる
     ⇄【比較参照】【 重史 032 】「惟任退治記」「あめかしたしる

 同日。
 光秀は、亀山にもどった。

  五月廿八日、丹波国亀山へ帰城。
                          (『信長公記』)

 【引用】 そ第78話⑫ そ第78話⑬



 ⇒ 次へつづく


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?