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仮面をかぶる人間 2

今日も今日とて村上春樹さんの「一人称単数」という短編集の感想をつらつらと書いていく。

中心がいくつもあって、しかも外周を持たない円を、君は思い浮かべることができるか

この短編集は本当に、主人公は自分なんじゃないかと思うのだ。「主人公が自分」というのは「主人公に思わず自分を投影してしまう」というよりは、「自分が過去に経験した出来事の中で、きちんと言葉にしてこなかった理解しがたいもの」について書かれているような気がする、と言った方が正しいだろうか。過去に出会ったよくわからないもの、何かしらの形で記憶には確かに残っているのに言葉で説明できないもの、突然ふっと思い出すけれどそこまで人生の中で重要ではなかったものについて、村上春樹さんが言葉にしてくれているような気がするのだ。



謝肉祭(Carnaval) 157ページより

僕らの暮らしている世界のありようは往々にして、見方ひとつでガラリと転換してしまう。光線の受け方ひとつで陰が陽となり、陽が陰となる。正が負となり、負が正となる。

この話は決して堅苦しい話ではなくて、主人公が知り合った人間の中でもっと醜い容貌の女性"F ✳︎" についての話だ。

だが世界のちょっとした物事が見方を、視点を変えるだけで全く違うものに見えてしまうというのは良くも悪くもよくある話で、何度も何度も私もそれについて考えてきたし、固定的で偏った見方かもしれない、と 自分の意見そのものを疑ってかかるくらいじゃないとなぁ....と思っている。ほんの少し自分が正しいのかを疑うだけで、違う視点の世界への1歩は踏み出せるような気がするのだ。

東大王の伊沢さんも最近そんなようなこと言ってなかったっけ。Twitterで。

この短編の中の彼女(F✳︎)との会話でもっと印象的だったのはこの部分だ。


「仮面を被っているうちに、それが顔に張り付いてとれなくなってしまう人もいるかもしれない」(中略)
「でももし仮面が顔に張り付いてとれなくなったとしても、その下に別の素顔があることに変わりはないのよ」
「誰にもそれを目にすることができないだけで」

この話の中でシュペーマンは人々の仮面と素顔の両方を同時に目にすることができた人だとされている。何故ならば彼が"仮面と素顔との息詰まる狭間に生きた人だったから"(171ページ)、と。

誰かの仮面を被った顔と素顔の両方を同時に目にすることなど普通の人間にできることなのだろうか。
それとも気づかないうちにある種の"運命の相手"というか"初めましてのはずなのにどこか懐かしい感じのする人"、とかいう人の顔は全て見えたりするのだろうか。全て見えることで尚更相手に惹かれたりするのだろうか。

私たちの多くが「仮面を被って生きている」という事実を私は認めざるを得ない。なぜなら当然自分もそういう人間だからだ。いつだって素顔で過ごしていれば誰にでも受け入れてもらえる....なんていう綺麗な世界ではない。人間の生きる世界は。いつだって誰かにほんの少し良い顔をしたくて、いつだって誰かからの嫌悪の気持ちを感じたくなくて、そっと素顔に蓋をする。

自分を守るために。時には相手を傷つけないために。世の中には「知らない方が良かったこと」とというのはたくさんある。「知ること」にもちろん意味はあるけれど、「知らなければ良かったこと」はあなたの顔を覆う仮面をさらに厚くしてしまうかもしれない。
あるいは、何種類もの仮面を付け替える様々な顔を持つ人間を作り出すのかもしれない。

仮面を被って生きている人の素顔を無理に知りたいとは思わないが、素顔を見せてくれる存在がいるというのはやっぱり嬉しいことなんじゃないだろうか。周囲の人間のかぶる「仮面」に気づいたところで、それはお互い様だ。それでうまくやっていけることの方が多い。たとえ「素顔」を知らなくとも人生の最後の方まできっと続く関係なんてものは案外あるんじゃないだろうか。
近づきすぎず遠すぎずの関係が、案外心地よかったりするんじゃないだろうか。ほんの少しの弱さが露呈して、仮面が剥がれかかってしまった時、相手に素顔を出すべきか決めれば良い—— 今はそんなふうに考えている。


時に仮面の奥に隠された真意(時にそれはすごく恐ろしいものかもしれない)を読み取りたいと思う時がある。相手に対する好奇心のような感情ではなく、純粋に相手のことを「理解したい」という気持ちで、だ。

相手が考えていることをできるだけ知る必要があるときもある。特に教師という仕事は。できるだけ生徒が考えていることを打ち明けられるように。自ら仮面を剥がしてくれるように。
だが時々思うのだが、仮面に気づいた時にその真意を理解しようと相手に接するのではなく、その仮面を(生徒が)自ら剥がさなくても良いように接することも必要だと思うのだ。生徒のその仮面が剥がれるのは、素顔を見せられるのは、教師という存在に対してでなくて良いと思うのだ。
教師というのは誰しもの人生の通過点となるような人間で、生徒のことを知りたい、理解してあげたい、支援してあげたいという気持ちだけで仮面の奥に隠された素顔に触れるのは、本当に良いことなのだろうか。


彼らの素顔を知ろうとするのではなくて、彼らが素顔を見せられるような相手を見つけられることを願いたい。支えてあげたい。そういう生徒たちを信じてあげたいというような気持ちも 今の私は抱えているのである。


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