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アウトプットで、「正解」ではなく「答え」を見つける

最近ちょくちょく目にする、
「インプットとアウトプットの関係」。

一昨年、幼稚園の父母会会長業務でインプットが全然できず
自分の中から仕事の企画が何も生まれていないことに
危機感を覚え
(私は言われた企画より自分で出した企画の方が
 断然仕上がりがいい、と言われるタイプ(笑))、
昨年からやりたいことリストに「読書」を掲げました。
本を読むことは元々好きなので全く苦にはならず、
そしてどんどん企画が湧き上がってくる。
とても満たされた気分になったことを覚えています。

そんななか、こんな感じのことを耳にしまして。

インプットは、それだけで「やった気」になってしまう傾向がある。
どちらかというと、意識すべきはアウトプット。
今インプットに力を入れている人は、
その時間の一部をアウトプットにスライドしたほうが
実はよほど成長につながる

たしかに、途中から「インプット過多」になり始めるんですよね。
もちろんそこで得た知識そのもので自分が豊かになったり、
そのままアウトプットして価値があることもあったり。
けれど、本を読むこと、冊数を稼ぐことそのものが目的化し始めたり、
自分で考えるのではなく本の中に「正解」的なものを探してしまったり。

インプットに追いかけられる感じになって、
そこから一歩自分で噛み砕いて熟成させるアウトプットの優先順位を
下げてしまっている
ことに気づきました。


いま、「13歳からのアート思考」という本を読んでいます。

プロローグで紹介されるのは、モネの「睡蓮」。
これを「鑑賞してみてください」というところから始まります。

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私は全く無意識に「ああ、あの絵ね」と思い、
下の解説を読み、
ページをめくりました。

けれど、ある小さな子どもは、
「カエルがいる!」と言ったそうです。
しかも、なんと「水の中に」!

実はこの絵の中に、カエルは「描かれていない」。
水の中も、「見えない」。
けれど、その子は水の中を「見た」。

そして、そこに続くオリエンテーションの章では、
こんな見出しが現れるのです。

「正解を見つける力」から「答えを見つける力」へ

あぁ、アウトプットはここに価値があるんですよね。
解説を読む私(インプットモード)は「正解を見つける私」。
けれど、この絵がどんなもので、どんな魅力があって、
何を感じたかを説明するならそこに表現を加える必要があり、
自分なりの解釈が必ず加わる。
「自分なりの答え」がないと、語れない。

インプットが、車窓から美しい風景を眺めることなら、
アウトプットは、その風景を自分の絵筆で描くこと。
何を見たか、どこをどんなアングルで切り取るか。
あそこはどうなっているかとグッと顔を寄せて眺めたり、
違う風景や違う時間帯を組み合わせたり・・・。
そうして初めて自分がその風景をどう捉えているかが理解できる。

あ、たったいま隣でひらがなを書いている次女がいいこと言った。
「書くと『これじゃおかしい』ってわかるね」
左利きで鏡文字になりやすい我が子も、
アウトプットの効果を語っている・・・。(笑)

自分の外に出そうとするからハッキリすること。
自分と切り離した外に出すことで気づく違和感。
本当に「わかる」ためには、アウトプットこそが必要。

そしてこのnoteという場も、私のアウトプットそのものです。



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