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新卒で出版社に入れなかった私だけど、今は文章にまつわる仕事で楽しく働けているのでこれまでの話を書きます

わたしは今、株式会社ミアキスという会社をやっています。
ミアキスは2016年に立ち上げました。
はじめから「独立して会社を起こすぞ!」と思っていたわけではありませんでした。
今日はわたしが社会に出てからの経歴を書こうと思います。

卒業式が終わったのに就職先がない

2010年3月。わたしは大学を卒業しました。
でも就職先が決まっていませんでした。
内定していた会社の業績が悪化し、同年1月に内定取り消しをくらっていたのです。

決まっていたのは小さな出版社。
本が好きだったので、また「出版社に就職しよう」と思って就活していました。
わたしの実家は宮城県にあるため、就職して収入があって家賃が払えないと東京にいられません。
焦っていましたが「焦っちゃいかん」と冷静な自分もいました。当時を思い返すと吐きそうになります。
中途も新卒も関係なく募集があったら応募しまくり、児童書専門の編集プロダクションが拾ってくれました。
編集プロダクションとは、出版社から依頼を受けて本を作る会社です。
採用の連絡が来たのはたしか4月2日とかだったと思います。
「出版に関われるならどこでもいい」と手当たり次第に応募していましたが、焦っていたわりに自分にドンピシャな会社に入れました。
ミラクルラッキーでした。

毎日みんなでランチに行く楽しい会社

そこに4年間在籍して40冊ぐらい本を作りました。
ここで鍛えられて、ひと通りの本づくりができるようになりました。
ネタ出し、台割作成、ラフ作成、レイアウトの依頼、イラストの依頼、取材のアポ入れ、原稿作成、写真の借用手続き、編集、監修チェック、校正校閲の反映、カバーや表紙の作成、特色の指定、赤字の取りまとめ、印刷所とのやりとり、入稿、ゲラの戻し、校了などなど、イチから教えていただきました。
本当にありがたかったです。

学校や図書館に置かれる本や、学校の総合学習や調べ学習で使われる本を主に作っていて、それらのほとんどは新学期に合わせた3〜4月に刊行されます。
だから忙しい時期がだいぶ偏っていました。特に冬は死ぬほど忙しい。
このときに、忙しいときでも絶対に手を抜いちゃいけないところを学び、逆に全力投球しなくてもいいところも知り、自分を守るためのサボりのテクニックを磨いたりもしました。
「論破ってまったく意味ないな」とか「本物のエラい人はエラそうにしないものなんだな」とか、この世の真理っぽいこともこの時期にけっこう悟りました。

結果も出すことができました。
わかりやすいので言うと、2012年には「見学! 自然エネルギー大図鑑 全3巻」(偕成社)を担当し、図書館セット本売り上げランキングで2位か3位(記憶が曖昧)になりました。
2013年には「尾木ママの女の子相談室 全5巻」(ポプラ社)を担当し、同じく図書館セット本売り上げランキングで1位になりました。

会社の人はみんないい人で全員大好きでした。
社員数は10人ぐらいで、なんと毎日6〜7人でいっしょにランチを食べに行っていました。
女性が多い職場だと、よく「お付き合いで行くランチがめんどくさい」とかいう話を聞きます。でもそれはまったくなくて、毎日楽しかったです。
当時シスターフッドという言葉は知りませんでしたが、今振り返るとそれだったと思います。

あと、わたしは幼稚園のときからずーっと学校が嫌いで(友達は好きです)、社会人になってはじめて「毎日楽しいな〜」と思いました。
この会社で定年まで勤め上げるつもりでした。
恋愛で「この人しかいない!」と思って、はじめて付き合った人と結婚しようと思うみたいな感じです。

一方で、悔しいこととかムカつくことも今よりありました。
だからこそ、フラットに接してくれる方や、きちんと敬意を持ってコミュニケーションをしてくれる方の存在が、すごくありがたかったです。
そんな人に囲まれていたから、わたしは自分の感受性くらい自分で守ることができました。
この時期にわたしは、どんな人のことも個人として尊重して働き続けると決めました。よく考えたら当たり前のことですが……。
なんか、誰もが誰かの大切な人であることや、深い悲しみを経験したことがない人はいないということを、常に忘れずに人と接したいなぁと思ったんです。

そんなこんな(?)や忙しさが重なって、会社自体は好きだったんですが4年目に「ちょっと休みたいな」という気持ちになりました。
社内は本当にいい人たちばかりだったので「辞めたい」って相談したら自分が辞めるの辞めちゃいそうで、しばらく心に秘めていました。
年度末に辞めるつもりで、年末に言おうと決めていました。
「この忘年会のあとに辞めるって言おう」と思って参加した忘年会。
チョー楽しくてうっかりはしゃぎすぎて「このテンションで辞めるって言いづらいな」となりました。
恋愛で「別れようって言うぞ」と決めてた日にうっかり仲良くしゃべっちゃって、別れようって言いづらくなるときと似てる……。そんなことを考えながら、気まずかったけど「辞める」って言いました。
この編プロには今も感謝しかありません。

まだ紙がエラい時代にウェブの編集者になる


話が少し戻ります。
内定取り消しになったとき、その会社から「代わりの会社は紹介できないけど、よさそうな人は紹介する」と言われて、日経BPの方を紹介してもらっていました。
すごくいい方で、おそらくいい人だからこそでしょう、2010年3月ごろは人員整理を任されていたそうです。
当時は「人を雇う余裕がない」とのことだったのですが、たまに飲みに連れてってくださったり、平和だったころのTwitterで相互フォローだったりして、ゆるく繋がっていました。
編プロを辞めるときも相談に乗ってもらいました。
そしたら「今うちの会社で人足りない編集部あるよ」と言われて、それが日経ウーマンオンライン編集部でした。

日経ウーマン……これまでずっと児童書をやってきたのに、急に女性のキャリアとか生き方とか、時間術とか仕事術とか資格とか人生の輝かせ方についてやれるのか。
「わたしはそれに熱意を持てるだろうか?」とまず思いました。
条件は正社員ではなく派遣社員だし、しばらく雇用保険で過ごすという手もあって、決められずにいました。
しかも2014年はまだウェブより紙媒体の方が圧倒的にエラい!という空気でした。

また話が変わりますが、会社を辞めると伝えた年の年末にスリランカに行きました。
行きの飛行機で預けていた荷物がロストしてしまいました。
機内に持ち込んだパスポートと財布とティッシュとハンカチだけでスリランカに上陸しました。激ヤバです。
着替えとかなくてどうしよ〜と思いながら観光地のお寺に行ってボーッとしました。
そこは、日本語だと仏歯寺(ぶっしじ)という名前で、仏の歯が納められている寺でした。
観光地ですが、日本の観光地の寺よりも敬虔な仏教徒が多かったように思います。
真剣に祈る人たちに囲まれながらボーッとしているときに「せっかく誘われたから日経ウーマンオンラインに行ってみよう」って答えが浮かびました。理由は自分でもよくわかりません。

編プロを辞めて、日経ウーマンオンラインで派遣社員をすることになりました。
2014年の春のことです。
余談ですが、この年の3月には編プロで残っていた有給を使ってモロッコに行きました。
2週間ぐらいかけて、バスでモロッコを一周しました。もちろんひとりです。いま考えたら危なかったかもしれません……。

さて、日経ウーマンオンラインで働き始めると「熱意を持てるだろうか?」という心配はすぐ消えました。
日経ウーマンってバリバリ働いてて輝いてる人が読者かと思いきや、意外とそうでもなくて、モヤモヤしてる人、悩んでる人、それでも仕事を頑張りたい人がターゲットでした。
輝きたいからこそ、今輝いてない人が読む、という感じです。
それに気づいたとき「わたしじゃん」と思いました。わたしが日経ウーマンだったんです。
だからコンテンツにも読者にも共感できて、すごく楽しく働けました。

この職場でも人に恵まれていました。
初めて編集長を紹介されたとき、わたしが「週刊スピリッツを読んでる」とチラッと言ったことを覚えていてくれて、次に会ったときに「団地ともおおもしろいね」と言ってくれました。
出社初日には「大切だから最後までずっと自分で担当していた」と言って、抱えていた大事な連載を全部わたしに引き継いでくれたことを今でも覚えてます。
副編集長も記者のみなさんもいい方ばかりでした。
ウェブ記事の作り方をここでしっかり教えていただきました。
この編集部にも感謝しかありません。

派遣社員だったので、日経ウーマンオンラインははじめから一年で辞めるつもりでした。
まだ27歳だしもう一度きちんと就職する。周りもそれがいいと言ってくれていました。

旅行関係の会社で7キロ太る


そして、2015年に歴史ある旅行ガイドブックの会社に就職します。
その部署にウェブの編集ができる人がいないからお願いしたいという話でした。
旅行関係なんて楽しそう!って思われるかもしれないけれど1年で辞めました。
配属されたときは、サイトの運営体制がなかなかにカオスで、それらを全部整えました。
サイトのPV を上げて安定させて、広告記事の単価を上げてPV保証も付けました。
わたし一人の力で成し遂げたわけではありませんが、期待されていたことはやり切った……はずです。
この会社では自治体や企業とのタイアップのノウハウを学ぶことができて、ありがたかったです。
この1年で7キロ太りました(その後半年で戻しました)。この年の記憶はあまりありません。

この間にも、日経BPの方々との繋がりは続いていました。
いろいろあって、ありがたいことに2016年4月に日経ウーマンオンラインに業務委託で戻ることになりました。

強い決意もなく会社を作る


日経ウーマンオンラインに戻るタイミングで、周囲のアドバイスを受けて会社を作りました。
それまで法人化はまったく考えていませんでしたが、なんか流れで登記しました。創業ストーリーとか無いです……。29歳でした。今考えたらよい選択だったと思います。
ふつうなら会社を起こしたら仕事がないところからスタートするはずです。わたしはすでに仕事がある状態だったので、ずるいぐらいにラッキーで、いいスタートを切れました。

余談ですが、会社を作る直前にケニアに行きました。
サファリツアーの最少催行人数が2人以上だったけど、わたし以外に申し込む人がいなくて、でもどーしても行きたくて、2人分の旅費を払ってひとりで行きました。70万円でした。
ちょっと頭がおかしくなっていたかもしれません。

戻った日経ウーマンオンラインでは4年ぐらい働きました。
取材が必要ない記事も含めると、1ヶ月に30本ぐらい担当してました。ランキング上位に入ることも多かったですし、心身ともに充実してました。
わかりやすい結果も出せました。
編集部全員の力ですが、なんと日経ウーマンオンラインのPVとUBが2年間で倍増しました。
これが理由で、編集部の社員の方は社内賞を受賞したそうです。

当時を振り返ると「忙しかったけどめっちゃ楽しかった」と100%の気持ちで思います。
このときも関わる全員がいい人で大好きでした。わたしは本当にいつも人に恵まれています。

しかしあるとき日経ウーマンオンラインがなくなって、新しいサイトが立ち上がることになりました。
さっき書きましたが、日経ウーマンオンラインはモヤモヤしてる人、悩んでる人、でも仕事を頑張りたい人がターゲットで、輝きたいからこそ今輝いてない人が読むという媒体だとわたしは思っていて、そこが好きでした。
新しいサイトは、はじめから輝いていて収入も高めな人がターゲットになるといったような話でした(今は違うかもしれません)。
それはそれでよいと思いつつ、わたし個人としてはあまり熱意を持てないような気がしました。
お世話になっていた方も異動になりました。
それに、いろんな経験を重ね、いろんな考えに触れるうちに自分の中のモヤモヤがだんだんなくなってきていて、もう「わたし=日経ウーマン」という状態を卒業しつつありました。自分の精神のタイミング的にも辞めどきだったように思います。

立ち上げた会社は続けよう


日経BPとの業務委託契約は2018年の年末に終わらせました。
そのあとすぐ、2019年1月に1ヶ月間スリランカに滞在しました。
サファリや海に行ったり、また仏歯寺を訪れたりしてボーッとしながら「会社は続けてみよう」という考えが心に浮かびました。
出版業界はフリーランスで働いてる人も多いし、わたしも同じようにやってみよ〜と思い、どこにも所属しないで働くことにチャレンジすると決めました。
会社は20代の自分からの贈り物のようで、大事にしたい気持ちも芽生えてきていました。
その後、仕事を紹介してもらったり、お声を掛けていただいたりして、ありがたいことに仕事が途切れることはありませんでした。

そして2020年に結婚し、2022年に出産し産休育休を取り、2023年に仕事復帰しました。
今は小さい子どもを育てながら働くことの大変さを感じています。それでも結局わたしは仕事が好きです。

最後に、弊社が大事にしている六つの精進っぽいことを書いて終わります。

・謙虚にして驕らず
・欲をかかない
・誰に対しても礼儀正しく誠実に
・なんかあっても笑顔でやり過ごす
・目の前のことひとつひとつを丁寧に
・コツコツと
 
お仕事のご相談お待ちしてます😄


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