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社会人 大学院修士課程 教師を続けながら 大学院受験 合格のあと
合格通知書を受け取ってからは、次に邁進しなければならない。大学院から届いた書類に次々と必要事項を書き込み、学費を納入した。前にも書いたが、自分の手で費用を捻出することは容易ではなかった。それのどれもが大学院を受験するという意志が導いてくれたものだと思っている。
研究計画書というものも生まれて初めて書いた。やはり、きちんとした目標立てをしていないと2年の就学が、3年、4年とズル引きされてしまうだ
社会人 大学院修士課程 教師を続けながら 大学院受験 合格発表
試験が終わると、当然訪れるのは、合否発表である。昼間は中学校で講師、夕方からは学習塾の講師をしながら考えていたのは、やはり「伸るか反るか」であった。サポートしてくれた人たちに報いたい。自分のことはもちろんだが、やはり、素晴らしい先輩や同僚に成果報告を、いや吉報を届けたかった。
一昔であれば、ウェブページで合否結果を確認できる。佛教大学もウェブでの確認は可能であるが、最近はQRコードで行える。そ
社会人 大学院修士課程 教師を続けながら その9 初めての教壇
教員免許を取って初めて赴任したのが母校だったことはとてもラッキーだ。英語科のスタッフの平均年齢は若いけれども皆しっかりしていた。生徒たちも優秀で、言わなくても理解してくれる子が多かったのは新米教師にとってかなり有難い。体育祭や文化祭などの行事が終わると、先輩教師たちはよく呑みに誘ってくれた。当時は職員室の雰囲気も和やかで良かった。管理職の方がよく気を使ってくれていたという事実もある。あるときなんか
もっとみる社会人 大学院修士課程 教師を続けながら 大学院受験当日
朝の目覚めが最高に良かった。ホテルの朝食へと向かう。ダイニングのゲートに入ると、そこにはバイキングが用意してあった。特に珍しい光景では無いのだが。鯖のスモーク、だし巻き卵焼き、味噌汁におばんざい。最後に一杯のコーヒーをゆっくりと飲んだ。少し気持ちを込めながら。
身支度を調えて、ホテルを後にする。京都駅前は言わずと知れた名旅館や老舗ホテルが建ち並ぶ。その脇をすり抜けるようにただ前を見て地下鉄烏丸
社会人 大学院修士課程 教師を続けながら 大学院受験
決意すればあとは行動である。どの大学院にしようかと実はあまり悩まなかった。育ち盛りの子ども2人の父親であるがため、生活費を稼がねばならない。そうすると、働きながら通えて、しかも学費がリーズナブルであることが条件となる。佛教大学の通信課程に決めた。
ちょうどそのタイイングで本屋で見つけたのが、後の恩師となる指導教員の「メタファー思考」だった。英語教師として更に深い研究を重ねていくならば、やはり言語
社会人 大学院修士課程 教師を続けながら 教育者・研究者として
教員生活も充実していた。高校教員として実務をこなし、その傍らで家族の将来などを考えることがあったが、やはり面白かったのであろう。1年ごとの契約であったが、その時間・空間を僕は楽しんでいた。
県の教職員として生きていくためには、教員採用試験での合格が必須となる。しかし、僕は官僚社会に埋もれることなど何処かで拒絶していたのである。それは、アメリカを後悔のうちに後にしたあの瞬間がそうさせたのだ。逆に、
社会人 大学院修士課程 教師を続けながら その6 アメリカ留学 帰国①
アメリカ最終日の朝が来た。時計の針は丁度4時。こんなに朝早く飛行機が出るのかっていうと、出るのである。ルームメイトの友達が車を出してくれた。一路スティーブンス・ポイントの空港へと向かう。12月。朝というよりも、まだ夜って感じだった。寒空の下、2台の車は凍てつく朝焼けの中を突っ走っていく。前の車に、Joel, その友人,Hiromi, そして僕。後続車にはPaul,Sanae,Motokoが乗ってい
もっとみる社会人 大学院修士課程 教師を続けながら その8 教員免許
久しぶりに会った友人との会話の中で、教員免許取得の話が出たときは、もうひと頑張りだと信じた。早速、佛教大学通信教育部に入学した。履修要項やリポート用紙といった資料が次々と送られてくる。それらを眺めつつも数か月前のアメリカでのことを思い出した。無念とは裏腹に、今は希望に満ち溢れていた。これで努力をすればまた希望の光が見えると信じて。
自分で立てた履修計画は2年間で修了するもの。免許の申請は中学1