見出し画像

社会人 大学院修士課程 教師を続けながら 教育者・研究者として

教員生活も充実していた。高校教員として実務をこなし、その傍らで家族の将来などを考えることがあったが、やはり面白かったのであろう。1年ごとの契約であったが、その時間・空間を僕は楽しんでいた。

県の教職員として生きていくためには、教員採用試験での合格が必須となる。しかし、僕は官僚社会に埋もれることなど何処かで拒絶していたのである。それは、アメリカを後悔のうちに後にしたあの瞬間がそうさせたのだ。逆に、年契約の先生などは、アメリカでは普通である。UWSPではHao haoと一緒にナイトクラスへ参加した。そこでは、中学や高校の先生たちが資格のリニューアルを目的に参加していた。グループディスカッションでは皆すこぶる積極的だったのを憶えている。

画像1

日本で教員をしていると,常日頃思うことがある。それは…。「こどもに夢と希望を与える」などと言うものの、自己主張すれば「出る杭は打たれる」世界であることだ。ましてや、1年の任期付き教員がそれをすれば,たちまちのうちに空気は薄くなる。そう自覚しながらも、「お客様」であることにある種の快楽を得始めていたのも教員生活10年目を迎えた頃だ。

竹原市のある高校で非常勤講師をしていたのだが、Paulにメールで連絡をしてみた。「大学院に興味がある。Temple University of Japanなどどうだろう」彼の応えは「お勧めですよ。僚友がいますから」だった。ただ、学費が高く、とてもじゃないが、働きながら支払える金額では無かった。

画像2

(海から眺めた広島商船高等専門学校。練習船は広島丸)

いったん諦め、それから数年後、広島県大崎上島にある広島商船高等専門学校に非常勤講師として赴任した。ここで出会ったのは。これまでの「先生」とは少し違った教員たちだった。学校そのものが教育機関であると同時に研究機関でもある。すなわち、教育者であると同時に研究者としての資質も求められるのである。ある日、同じ非常勤の教員から論文を書くことを薦められた。とある団体に研究費を申請してみると、少額ではあるが、獲得できたのである。それを2年連続。ここで一つの節目が来た。大学院に社会人としての入学を決意した。2017年春のことである。

よろしければサポートお願いします。