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社会人 大学院修士課程 教師を続けながら その8 教員免許

 久しぶりに会った友人との会話の中で、教員免許取得の話が出たときは、もうひと頑張りだと信じた。早速、佛教大学通信教育部に入学した。履修要項やリポート用紙といった資料が次々と送られてくる。それらを眺めつつも数か月前のアメリカでのことを思い出した。無念とは裏腹に、今は希望に満ち溢れていた。これで努力をすればまた希望の光が見えると信じて。

自分で立てた履修計画は2年間で修了するもの。免許の申請は中学1種・高校1種の外国語(英語)。教員をやるならば、やはり、大学に近い高校だと思った。高校での教歴を積めば、少なからずもアカデミック・ポストに近づける。そう信じた。その教員免許取得が後の僕の人生にとって、大きな意味を持っていた。計画を立ててからというものの、昼間は仕事をし、夜は勉強にあてた。もちろん、経済面で親を支えたのは言うまでもない。

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(パブリック・ライブラリーの存在はありがたい。言わずとも知れた、知見の宝庫である)

日々の学習はもちろんのこと、時々スクーリングへの参加と科目最終試験が課されていた。広島や岡山、京都、大阪、相生などの都市で行われたが、真面目な気性から、試験が終わると遊ばずに帰るといった状況だった。リポート課題の中には平易なものもあれば、かなり手ごわい内容のものもある。そんな時、真っ先に頼れるのは図書館の存在である。文献をあさり、内容に則したものがあれば、コピーを取ってもらう。学術的な内容をかなり深く含むものなどは、何度も図書館に入り浸ってその解決に臨んだものだ。不思議とそれは苦しいものではなく、むしろありがたいと思える瞬間である。自分の足で前に進んでいけるのだから。

友人は時々、僕を呑みに連れだしてくれた。そして、近況報告である。彼は、話の聞き役に回ると同時に、教員として生きるにはのいろはを話し始めてくれたものだ。そして、周りに人達の手助けもあり、僕は社会人として大学に戻った僕は、無事に教育実習を終え、教員免許を取得した。妻と出会ったのもこのころである。また、ひとつの区切りが来たようだった。

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