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社会人 大学院修士課程 教師を続けながら 大学院受験 合格のあと

 合格通知書を受け取ってからは、次に邁進しなければならない。大学院から届いた書類に次々と必要事項を書き込み、学費を納入した。前にも書いたが、自分の手で費用を捻出することは容易ではなかった。それのどれもが大学院を受験するという意志が導いてくれたものだと思っている。

研究計画書というものも生まれて初めて書いた。やはり、きちんとした目標立てをしていないと2年の就学が、3年、4年とズル引きされてしまうだろうし、当然ながら費用もかさんでしまう。両手に有り余っているのならそれも良しだが。その研究計画書から指導教員が決定されるが、最初から恩師だと決めていたので必要書類に1通の手紙を入れて投函した。それからは英語学(認知言語学)の基礎学習に取り組み始めたのであるが、受験前と同じように朝5時に起床。それから2時間ほど机に向かった。地元三原市の高校で教鞭を執りながら、早朝は大学院の研究に腐心した。幸いにも、元同僚のF先生が色々と相談にのってくれたおかげで論文を書き上げることができたのである。リポート課題と科目最終試験をどんどんこなしていき、順風満帆であったように思えた。そんなある日の早朝。妹からの電話で目を覚ました。

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父が救急搬送されたのである。病床での父は既に危篤状態。というか、脳幹出血でほぼ再起不能であった。あまりに急な出来事で、僕を含め、家族全員が何が何だかわからない状態だった。一つ言えるのは、父は今まさに、あちらへのドアを開けようとしていた。脳裏を掠めたのは、会社が倒産し、必死に奔走する姿。この30年は彼にとってタイミングの悪さが重なったとも言える。借金を抱えながら、個人事業から株式会社へと移行する。聞こえはいいが、所詮個人の会社など資金繰りを初めあらゆる場面で嵐が吹き荒れる。父が頑張る姿を見て母もそれを支えた。借金をしながらも返済を繰り返す、そして頭を下げる。そんな姿が日常的であった。父の人柄の良さに群がるハイエナが居たことも事実だ。そんな彼らには、「主の裁きは下る。いずれ間もなく」

葬式は厳かなる雰囲気の中で行われた。職場の同僚やテニスの仲間が弔問に訪れてくれ、また香典を届けてくれた。そういった周りの人たちの心意気にまた感謝した。自分もまた、大学院での研究を成功させねばと決意したのもその時であった。

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