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大学院博士課程後期受験

 久しぶりの投稿になる。4月以降、職場が変わり、これまでにない環境でのスタートとなったことと、プライベートでも変化が起こったため、執筆に感ける余裕すらなかったのが事実だ。そう思いながら、今年はもう師走。皆さんいかがお過ごしでしょうか。頬を切るような朝の冷気に耐えながらも駐車場へと向かい、キーを廻す。つい最近のことだが、若干弱ってきたバッテリーを気遣いながら慎重にスタートを切る。最近になって、ようやく落ち着いて余裕が出てきた。というのも、この夏はかねてから希望していた広島大学大学院博士課程後期を受験し、働きながら学生生活を始めたのだ。最近では、生涯学習やリカレント教育といった言葉が世間一般で飛び交うようになったが、僕が理想を追い求め続けた1990年代はじめは、日本ではそういった考え方すら無く、社会人は馬車馬のごとく働く、というのが通例であった。ただし、これまでの記事でお話したが、アメリカでは大学の教室に18〜70歳くらいまでの人が机を並べて学問に傾倒していた。家庭の事情で帰国を余儀なくされた瞬間から、学位を取得し、学問を究めるといった気持ちはこの30年間ずっと持ち続けていたのだ。

 通信教育で教員免許を取得し、地元の高校で英語教師として働き始め、結婚、子育て、キャリアアップといえば聞こえは良いが、いつも平坦ではなかった。もうすぐ55歳になるが、常に自分を鼓舞させてくれるものは、帰国したあの日のことである。この年齢なら、そろそろ退職後の人生を考えるのが世間一般的であろう。しかし、自分の場合は、「何か」になりたいのだ。

 英語教師と聞けば、ほとんどの人は英単語帳を食べてしまう勢いで勉強した人たちだと思われるかもしれない。ところが、僕などはあの無味乾燥な小冊子が大嫌いで、5分もすればすぐに飽きてしまい、全くやる気が出なかった。そもそも僕は散漫なのだ。大学院で長い論文を何時間も集中して読んでいく。これも一つの才能だと思える。しかし、単語帳を開いただけで嫌になっている僕にとってぴったりの学問は「辞書学」である。

 「英語の辞書を作るのは、集中力が必要ないの?」と思われるかもしれない。たしかに、基礎段階では学術書や論文を読破することが求められる。しかし、最も大切なのは、辞書を製作する人の「言語能力と言語感覚」である。

#この仕事を選んだわけ

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