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哲学論考

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#認識

(その5)知性改善論(知性の優劣について、それはどのようか及びどのようにそれは起こるのか)

(その5)知性改善論(知性の優劣について、それはどのようか及びどのようにそれは起こるのか)

 確かに、知性には優劣がある。というのも、人それぞれできることとできないことがあるからである。(それはもちろん得意不得意のことである)分かりやすい例を挙げると、教科である。なぜだかそれには得意不得意がある。まあ、これは言うまでもなく個人の「特性」でしかないのである。(そうだから断っておくがそれがない人もいるがそれはそれでその人の特性でしかない)
 さて。このことから知性のとりあえずまず、優劣の前に

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(その4)知性改善論(知的認識と純粋認識について)

(その4)知性改善論(知的認識と純粋認識について)

 我々の認識の内には明らかに「教えられることなく認識できている」認識がある。例えば、「物体の存在」や「自分の認識」や「人間を同種と考えることで彼らと自分の間には普遍性があるという認識」、これらは絶対教えることができないが我々は認識できている。(ちなみに三つ目についてなのだが、実際我々はいちいち他人がどうこうなどいうことは教わらないし、のみならず仮に教えたとしても、または経験したとしてもそれは再確認

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分かるとは何か。(無経験的純粋性における)

分かるとは何か。(無経験的純粋性における)

 人間は偶然性を必然性へと移行させることで分かるのである。詳しくは人間には生来万物に対する概念(無経験的)というのがあって、(根拠として、仮に人間が全てを経験によって認識または形作っているのであれば、経験とは疑いようなくそれでない何かを最初は必ず用いているはずであるからつまりは、そもそも経験するためには経験以外の何かしらがなくてはいけないからであるから、人間はアプリオリ的概念及び認識を元来有してい

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(その2)論理性序論(思い込みについて)

(その2)論理性序論(思い込みについて)

 例えば、論理的に読解しようとする場合において、どうして我々は間違えることがあるのだろうか。それはずばり、「思い込むから」である。
  例えばカントの純粋理性批判の、「Aという主語概念に結びついているものとしてのBという概念を認識するためにAなる概念の外へ出る場合に、私が自分の支えとするところのものはなんであるか。」という一文を取り上げる。
 すなわちこれは、(後の展開から察するに)特定のAという

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(その2)知性改善論(知性の役割について)

(その2)知性改善論(知性の役割について)

 明らかに知性が働いて為されていることの一つとして「正解を導き出すこと」を引き合いに出し、「知性の活躍を明るみに出そう」と思う。
 すなわち、問題を解くにあたって我々はまず命題を理解することから始める。(いやそうしなくてはいけない)つまり、その正解に行き着くための足りない何かしらを補うことにおいて、その命題の方向及びおおよその距離を命題は示しているということを我々はまず何よりも先にそれを理解しなく

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(その1)知性改善論(知性の認識について)

(その1)知性改善論(知性の認識について)

 例えば、考えるということこそが理性であった場合、なぜそうであるのか。また、考えるということの範囲はどのようか。感覚や認識とを人は、どのように峻別しているのか。私はまずこれを究明した後に知性の改善に対する論考をしたいと思う。
 知性とは何か。持論ではそれは、判断全般のことであるとしてる。例えば、良し悪しや当否は知性の為せることではないだろうか。理論を組み立てる際も人間は多くを承認することが必要で、

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(その1)論理性序論。(説明の本質に対する若干の考察)

(その1)論理性序論。(説明の本質に対する若干の考察)

 論理においてまず重要なのは、「個々の事象を根幹から理解した上で、それらは何において、何をもってそれらと関連しているのか明確に把握すること」だと思う。というのも、実のところ全ての事象というのには必ず、「ある共通の何かしらの前提があって、そしてそれこそが一つの事象から演繹的(えんえきてき)に次の論へと移行して最終的に論全体を構築するから」である。つまり、まずそういった「論理の根底を成し、そしてなおか

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眠れぬ夜(認識の領域に対する若干の考察)

眠れぬ夜を唯物論者及び観念論者はどう説明するのか。或いはその説明する、言及するそれの本質はどのようか。または、その説明自体における矛盾、(例えば、己の心象と実際に形象したそれとの矛盾などのことである。ちなみに、まあこれというのは大方己の哲学を誇示しようという焦慮に起因するだろう。一に説明とは形而上学に過ぎないことを解していないかのどちらかだろう。)その説明は逆理ではないかという疑念、批判哲学への抵

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