【健忘録】浪人や仮面浪人せんでええよ☺️

冒頭に今仮面浪人を迷われている学生さん(受験生さん)に私から一言アドバイスできるなら、「よっぽど、どーーーーしても別の学校じゃなければいけない理由がない限り、浪人や仮面浪人などしなくて良いと思うよ」と言いたい。

人生は長い。特に医学部や他の専門職になる学部なら、正直学歴はそこまで重要でもないだろう。医師免許を取得後、ようやくスタートラインに立てる。その先で何をやるかの方が、どの医学部かよりも大切ではないかと思う。(ただ、私は紆余曲折あり、母校に行けたことに感謝もしているし、母校を誇りにも思っている。その辺、価値観は色々あることだろう。)

現役で第一志望の医学部合格後、一体全体なんで受験生などをやったかの背景の前に、少し闘病中の状態を書いておこう。


〜闘病中の背景〜

闘病の概要はこの記事↓↓(これは、初発時に高校復学までの闘病で、再発時はさらに過酷で回復もイマイチだった。しかし、雰囲気はよく似ている。)

再発時、なんで人工呼吸器装着中も勉強などできたかという背景を少々書こう。

全身麻酔下(プロポフォールとなんだったかな?2剤TIVA中)本当に眠れずに結構苦しんでいた。

一般病棟で家族の付き添いもあり、昼間はよく口パクで会話していた。

一般常識からは想像もできないだろう。しかし、大脳、辺縁系、脳幹脳炎でおそらくはGABAやGlycineの両方がやられる病態では、プロポフォールですら通常量を大きく上回っても意識があるという異常事態が起こった。

普通は麻酔投与中は爆睡も爆睡、昏睡のような常態を薬で作る常態にもかかわらず、私は意識がハッキリしていた。なので、勉強などもできたのだ。

他の疾患の一般常識では、到底考えられない状態だろうが、事実であるした(まぁ、私個人の記憶なので、曖昧だったり、不正確な部分もあるだろう。)

〜背景終了〜


常軌を逸しているだろうが、こういう状態の中、全身麻酔下で人工呼吸器装着中に勉強をしていた。

ただ、勉強していた背景もまた複雑。

事実、命を救ってくれた医療に感謝して憧れたのだ。

憧れた理由は、多分、起死回生を果たした状況が語ってくれるだろう。その記事はこちら↓↓

かなり厳しい病状で、私に国内初の治療を施してまで、危機的状況から救ってくれた。病棟にも病院のあらゆる私を助けてくれ、支えてくれ、快復を促してくれた全てのスタッフに感謝していた。当然、憧れも抱いていた。

同時に、入院中に幾度となく話題になった「日本の受験生」なるものに興味を持ち、憧れも抱いていた。(私はチャレンジ精神旺盛で、結構何事もやりたい性格だ。受験に関しては、そんな無駄なことせずに、受かったんならそこに入って、医者になってから色々他のチャレンジを楽しめばいいのに、と昔の自分に助言したい😅。)

勉強自体は、結構好きで、むしろ闘病の支えにすらなっていたかもしれない。これについての詳細は、こちらの記事↓↓

せっかく、高校在学中に医学部医学科に現役合格したのに、やっぱり前年に九死に一生を得た経験から、その時命を救ってくれたかかりつけ病院から世界の反対側の地に移住して新しい病院へ移ることに抵抗を感じた。

治ったようなつもりでいたが、症状を取るために体内に埋め込むんだ機械は毎週ちょびちょび調整してもらわなければキツかった。だから、「私が絶対にしないと決意した再発」の忍び寄る足音に気がついていないと自分では思いながらも、本当はその足音が聞こえ、大なり小なり怯えていた可能性も否定はできない。

ま、高校卒業後(日本では年度途中)に一応時間差で現役?で受験するために、たまにSEGという塾なるものに行きながら自宅で勉強していた。しかし、その最中に再発してしまった。

だから、再発入院中、人工呼吸器装着中は受験生真っ只中だったのだ。

再発時は初発時に全身麻酔で眠っている時間が多く、全然動けなかったのが辛かったので、プロポフォールはそのままにして、もう1剤を別の麻酔薬に変更してもらった。

すると、全身麻酔下で人工呼吸器装着中でもある程度は動けた上、体感的には意識も鮮明。参考書の問題も解けたので、勉強できたのだった。

ということで、人工呼吸器装着中も勉学に励んでいた。

結局、日本の医学部は入院中の受験になって、見事一次突破。(実際に受験した学校は、お互いの名誉のために伏せた方がいいと思う。)とはいえ、病状と病名を理由に2次を辞退するように、親が呼び出されて言われたとか。

背景は欧米カルチャーだった私としては、「なんじゃそりゃ~。あり得ない。そんなところ、こっちから願い下げ。」と、まぁ憤慨しながらも、入学前にその学校の姿勢を知ってよかったと思って辞退した。(全身麻酔下で受験して、実際2次試験を通ったかというのも、まぁ実際どうだっただろうね。今では、無理に受けずに良かったと思っている。まぁ、おかげで母校に入れたと考えると、きっと宿命というか、大きな力に導かれた人生のこの道が良かったとも思っている。)

結局、元々のカリキュラムの地域で医学部に入り、楽しい学生生活を謳歌した。もしも、当時の自分に助言できたのなら、アホなことなど考えず、普通に元々のカリキュラムでそのまま進学していた方が、なにかと楽だったのではないかと言いたい。苦労を若いうちにした方がいいとはいうけれども、無駄に苦労する道を選ばずとも、順当なコースを歩みながら、道中で様々な経験をすれば良いではないか。世界は広いし、人生は長い。もっともっと広い視野で、そしてもっと長い目で物事を見よう!

大体、北欧では、高校卒業後一年休暇を取って、実際のところ自分がどうしたいのかを模索して、やりたいことのために大学が必要ならば、大学に進学するとか。

若い時の一年は、とっても大きく感じる。しかし、社会に出れば、十人十色で、実に色々な道がある。正直、何を学び、どう生きようが、自分や家族の幸せに繋がれば、どんな道だろうと関係ない。その道中を楽しめばいいだけの話だろう。

まぁ、若い時の失敗は失敗ではなく経験とも言えよう。こういうのも、順応力と生きる力という考え方もできるだろう。

そして、まぁ、色々紆余曲折あるというのは、当時の自分のリミテーションでもあり、工夫力の反映かもしれない。自分の力量と知力と想像力の結果、もっと真っ直ぐな道を進まず、色々な景色を見ながらのジャングルを開拓するような道になったとも考えられるだろう。物事、広い視野で考えるのが一番良いだろう。

そして、どんな道を選ぼうが、再発していたのだとすると、勉強できる状態での再発というのも、結構救いだったとも思う。両親が当時住んでいた国に残留し、そこで入院生活を送ったのも、不幸中の幸いだと思う。(今では、色々な環境で入院歴がある。私一人しかおらずとも、友人さえいれば闘病・入院もどうにかなる部分もある。院内の人々は非常に優しいことも多い。とはいえ、親が必ず来てくれることにはなる。短期間を頻繁にでも、長めの期間でも。長くて人の助けが必要な入院というのは、やはり家族の傍というのはありがたい。)

そして、何ごとも当初の計画と違いがあれば、都度周囲に相談し、修正しながら、自分だけの道を歩めばいい。

何かに縛られることもなければ、自らの意思で自分の道を制限する必要もない。同時に、敢えて茨の道を選ぶ必要もないだろう。

ノビノビと楽しみながら、自分だけの道を歩めば良い。

今を大切に生きよう!



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