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短編小説

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2021年11月の記事一覧

11月の終わりの空気

11月の終わりの空気

マフラーと手袋がいよいよ手放せなくなってきた。
息を吸うと冷たい空気が肺を満たし、気が引き締まる思いがする。
それが何とも心地よく、いつもは憂鬱な通勤列車を待つ時間が楽しく感じられる。

「いうてる間に冬になってもうたなぁ」
「やっと秋らしくなってきたさぁ」

背後に立つ女性と私の言葉はほとんど同時だった。お互い思わず振り返って「えっ」と顔を見合わせた。
「それ、どういう意味?」と聞く間もなく電車

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昆虫たちのチキンレース ┃#完成された物語

「一文字でヒトを程々に怒らせたやつが勝ちだ」

ページを捲ると所々虫食いがあった。
古い本の宿命なのかもしれない。
でも、私だって伊達に文学少女をしていない。

『二郎、人を○弄するにも程があるぞ』
弄の字だけでも意味が通るな
「熟語を歯抜けにすれば困ると思ったのに」

『三郎の胸元で○翠のペンダントが揺れた』
この字、翡翠くらいでしか見ないわね
「複雑な字でも駄目か」

『ホテルのロビ○に一郎が

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おじいちゃん部|#完成された物語

最近、公民館の予約表に『おじいちゃん部』がよく登場する。

「何かしら、おじいちゃん部って。老人会の男性版?」

「キャッチコピーはアンチアンチエイジングだって」
ポスターを見て私は母に答えた。

遠い耳は補聴器、曲がる腰は矯正下着、深い皺は美容整形。

この半世紀で進歩した医療や科学の技術のおかげで、老人も若者と何ら変わらない見た目と暮らしぶりをしている。

対して、この部はあるべき姿のまま自然

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しゃべるピアノ|#完成された物語

しゃべるピアノ|#完成された物語

その男は毎日のように路上でピアノ演奏のパフォーマンスをしていた。

彼の演奏はそれは素晴らしく、観客たちから毎回のように多くの投げ銭による収入を得ていた。

しかし、ある日のこと急に演奏が止まってしまった。

演奏中しているのは間違いなく自分だ。
にもかかわらず自分以外の存在を日毎に強く感じるようになり、その違和感に耐えられなくなってしまったのだ。

少しの静寂の後、指が勝手に調和も何も無い旋律を

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法事の後

法事の後

 長年、仕事終わりに冷えたビールを飲むのが生き甲斐のようなものだった。
 グラスを掴もうとした手が空を切る。客は皆帰り、目の前に今や誰のものでもないビールや寿司が並んでいるのに、俺はただただそれを眺めることしかできない。仏前の小さな茶碗には少量の米が盛られ、そしてこれまた小さな湯呑みには水が入っている。俺が口をつけることができるのはこれだけだ。酒と寿司を供える文化だったら良かったのにとため息をつく

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1アンペアでも人は死ぬ

1アンペアでも人は死ぬ

 さまざまな形のスマートデバイスが普及して久しい。このスマートウォッチは、心拍計と睡眠モニタリング機能も搭載されたタイプだ。取得して蓄積されたデータは解析され、リアルタイムに状況分析が行われフィードバックされる機能を備えている。ある意味、自分よりも自分について詳しい存在と言えるのかもしれない。
 また、健康管理機能もあり毎日決まった時間に起床するよう設定したアラームはもちろん、睡眠時の寝汗を検知し

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甘やかなる抱擁

甘やかなる抱擁

 いつも通りの時刻に目覚ましを止めた。目は覚めたが動けないまま、天井と見つめ合って時間が過ぎていく。何とか起き上がって冷えた水を勢いよく流し込むと、出勤ギリギリの時間だ。ドアノブを回そうとする手が意に反して抵抗してくるのを感じながら外へ出た。叫びたい衝動を堪えて何とか会社の前まで辿り着き、深呼吸をする。朝の冷たい空気が肺を満たし、少し冷静になった気がした。早く仕事を片付けて帰って寝ようと思い直して

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深酒は控えようと思った

深酒は控えようと思った

 空きっ腹にウィスキーを流し込むと、まず脳が痺れていくのを感じる。そして顔、身体とその範囲は広がっていき、まるで他人のように身体の制御が出来なくなる。この感覚が好きで酒を飲んでいると言っても過言ではない。やがて酔いが回り始めると、今度は睡魔が襲ってくる。それはまるでそよ風のように瞼を撫でて、私を心地よい眠りへと誘っていく。そしていつものように、そのまま意識を失うように眠りについた。……はずだったの

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異世界からのもの

異世界からのもの

 全国的に記憶喪失者が急増するという奇怪な現象が起こるようになって半世紀近くが経った。喋れないもの、読み書きできないもの、気が狂うもの等多くは意思疎通に問題を抱えた状態での発症で、中には会話はできるものの文字が全く読めないといった症状も見られたという。様々な研究の結果、記憶喪失の原因が異世界転生だと断じられたのはほんの十数年前のことだ。にわかには信じがたいことだが原因が特定されてからの社会の適応は

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窓辺の紫煙

窓辺の紫煙

 ヒトの指は10本は一般的であり、キツネの血筋が入った自分のような種族は8本が一般的だ。ヒトからすると指が8本ということは物凄く不便に見えるようだが、自分はさらに少ない。私には指が7本しかない。指が一本少ないというだけで出来ないことは案外多い。しかも欠損しているのは利き手である右手の端から2番目で、ヒトで言うところの人差し指というものにあたるらしい。7本指であることは自分にとってコンプレックスであ

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