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パスカル・プラント『ナディア・バタフライ』東京五輪、自らの過去と未来を見つめる場所

大傑作。プールサイドの見えないコーチから指示が飛ぶ中、チームメイトと共にプールを全速力で往復するナディア。カメラは彼女と共にプールサイドを滑るように移動したかと思えば、ジャン・ヴィゴ『競泳選手ジャン・タリス』ばりの水中ショットで水を掻き息を吐くナディアの美しい動きを強調する。本作品は、19歳まで競泳選手として過ごしていたパスカル・プランテが自身の体験を基に製作されており、ナディアや彼女のチームメイトや友人たちも実際の有名な競泳選手が演じている。ナディアを演じるカトリーヌ・サヴァールはリオ五輪の4x200mフリーリレーで銅メダルを、カレンを演じるヒラリー・コールドウェルはリオ五輪で200m背泳ぎで銅メダルを、マリ=ピエールを演じるアリアン・マンヴィルはリオ五輪で4x100mフリーリレーで銅メダルをそれぞれ獲得した友人たちであり、脚本を裏からも表からも支えるナディアを支える形で共演している。そして、監督も演者も経験があるので、妙なあるあるを突っ込んでくるのが面白い。普段は息苦しいので水着に肩を入れてなかったり、水着から普段着にどこででも着替えられるような早ワザを持ってたり(みんな微妙に違うのがまた良い)、アイスバスに浸かりながらプロテインを飲んだり、言われれば確かにという競泳選手/大会あるあるみたいなのを日常風景として並べていくのだ。この"一般人には分からない"日常風景こそが後の展開のキーポイントとなってくるのがまた巧妙。

ナディアは演じるサヴァールと同じくカナダのオリンピック代表選手であり(しかも競技も一緒)、2020年の東京オリンピックを最後に選手を引退することを決めている。そういうだけあって競技のシーンはとてつもない緊迫感がある。最初の選手がスタートしてから三番目となるナディアが着水するまで長回しで描き、彼女と視点を共有するように床と水面を中心に撮られている。続いて彼女が泳ぎ始めると水の影響と集中しているために歓声が聞こえなくなり、水から上がるとオリンピックの水泳であまり見かけないプール縦方向の視界を共有してアンカーの泳ぎを見守る。この一連のシーンからもカメラは彼女を見守る天使のような存在であることが分かる。

どこからが創作なのかは分からないが、カナダ代表のウェアや怪しげなミライトワの人形(目に光が見えない…死んでいるようだ…)まで登場するのに、まさか2020年の東京オリンピックそのものが吹き飛ぶとは考えもしなかっただろうし、いつか実現したとしても観客がああも密集している大会はもう叶わないかもしれない。閑話休題、本作品の舞台は最後の大会が終わってから帰国するまでの短い期間である。家に帰るまでが遠足であるのと同様に、カナダに帰るまでは代表選手であり続けるのだが、やはり既に引退はしているという宙ぶらりんな状態の中で、これまで慣れ親しんできた環境から離れざるを得ないことへの葛藤や、競泳のために排除してきた世界へと飛び込むことへの不安などを描き出している。競泳を引くと何も残らないと思っている自分の人生に比べ、10年も一緒に練習をしているマリ=ピエールは同じくオリンピック代表なのに自分よりもずっと色々なことを経験してきた(酒にドラッグに恋愛など)し、まだ10代のジェスは体格にも背丈にも恵まれていてこれからの未来がある。ナディアは彼女たちを身近に見てきたからこそ、これから何者でもなくなる自分と比較してしまい、余計に悲観的になって自信を失くしていく。劇中ではこれらの反動について、"元カレみたいなもんでしょ"という答えを与えている。

本作品のカナダっぽい視点として、英語話者とフランス語話者が同じチーム内におり、フランス語話者がバイリンガルであるのに対して英語話者は英語しか話せないので、フランス語で内輪話が盛り上がると必ず英語で繰り返さないといけないシーンがあった。これに関連して、夜のクラブへと突撃したナディアとマリ=ピエールがイタリア代表選手とぎこちない英語で会話するシーンがあるのだが、ナディアは男慣れしているマリ=ピエールとは違って自ら進んで前に出ようとはせず、結果的にフランス語を話せるレバノン代表選手と知り合うことになる。チーム以外での会話は基本的に英語であることが想像される場所で、フランス語を話せる他人というのは安心感を与えてくれるのだろう。そういう意味でも開催地が東京であるというのは上手く利用しているように思えた。ちなみに、きのこの山とか自販機にあるチチヤスのミルクコーヒーなど見慣れた商品が登場するのはニヤけてしまった。チチヤスも世界デビューっすよ。

コーチの言葉で我に返り、自分のこれまでの人生に意味があったことを悟ったナディアは、帰りのバスで浮かれ騒ぐカナダ代表選手たちの様子を録音し始めるのだが、劇伴がすぐにその喧騒を乗っ取ってしまう。これはナディアだけが心に仕舞った唯一無二の音なんだ、と無性に寂しい思いがした。新たな旅立ちを見守る天使はもう必要なくなったのだ。

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・作品データ

原題:Nadia, Butterfly
上映時間:107分
監督:Pascal Plante
製作:2020年(カナダ)

・評価:90点

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・カンヌ映画祭2020 カンヌ・レーベル作品

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2. フランシス・リー『アンモナイトの目覚め』化石を拾う女の肖像
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本作品は2020年新作ベスト10で9位に選んだ作品です。

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